江談抄 ごうだんしょう

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 鎌倉

  • 鎌倉
  • 1巻
  • 重文指定年月日:19390527
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 公益財団法人前田育徳会
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 『拾遺愚草』は、中世和歌を代表する藤原定家(一一六二~一二四一)の生涯の心情が如実にわかる自撰家集の自筆本であり、定家の子孫に襲蔵されてきた稀有な遺品である。
 『拾遺愚草』の編纂は、上巻の「春日同詠百首應 製和歌」の本奥書に、建保四年(一二一六)定家五五歳のときに、三巻の家集を最初に編纂したと見えるのが始まりで、その成立は、下巻巻末に天福元年(一二三三)十月十一日の定家出家の歌が記されているところから、定家七二歳の出家以後であることが知られる。
 書名は、①建保四年の本奥書に、同年二月に自撰した「定家卿百番自歌合」の「遺」を「拾」という意味のほか、②養和元年(一一八一)に「初学百首」を企てたこと、③建保四年に二度目の侍従を兼任し、唐名で侍従を「拾遺」と呼ぶことがその由来となっているとされる。
 本書は、上・中・下の三帖からなる。本帖の体裁は、綴葉装冊子本で、茶地金銀砂子散銀泥霞引の原表紙を付し、外題を左肩に後筆で「上(中・下)」と直書している。料紙は楮紙打紙で、丁数は上帖一九六丁(後遊紙四丁)、中帖八八丁(後遊紙三丁)、下帖一四五丁(後遊紙一丁)である。本文は半葉九行、一首二行書きで筆跡は二、三の手になるが各帖の一丁目と最後の出家歌は老練な筆で、定家筆と認められる。定家以外の筆跡について、『拾遺愚草』の初撰の建保四年には、源光行に清書させたと『定家仮名遣』序文にあり、また、家令の能直は「鳥跡異ならず」(『明月記』建暦二年九月二十八日条)とされるように、定家の書風を習った右筆らのいたことが知られる。本書も定家が最初に書き始め、続けて本文を右筆等に書かせ最終的に自らが校正した自筆本である。
 上帖には一五の百首歌、中帖には「韻哥百廿八首」を冒頭に、五〇首・三〇首歌などの定数歌、屏風歌・障子歌の類、下帖には春、夏、秋、冬、賀、恋、雑に分類した総歌数二八八五首を収録する。集付には、「千載」「新古」「勅撰」「續後」「續古」「續拾」があり、定家、為家等が勅撰集に用いている様子がうかがえる。
 本書の注目すべき点としては、下帖一〇九丁目と一一〇丁の間に四丁分が切り取られ、一一〇丁(表)も白紙になっている(相剥ぎされている)ところである。この箇所には、承久年間の二四首(二七四四~二七六七番)が収められていた。現状の切除箇所には、冷泉家一四代為久(一六八六~一七四一)が同歌を別紙に書いて貼り込んでいる。二四首の中には、承久二年(一二二〇)二月に後鳥羽院から歌を召されたときに「道のへの野原の柳下もえぬ あはれなけきのけふりくらへに」(二七四七番)と詠じた歌が含まれている。切除の理由は不明であるが、定家はこの歌で院の勅勘にあい、謹慎していた間に承久の乱が起きた。そのために、定家は乱後の鎌倉幕府の糾弾から逃れることができたのである。切除箇所には明らかに文字の墨痕が認められ、当初には歌が書かれていたことが判明する。『拾遺愚草』の伝本としては、六家集に収録された写本があるが、その六家集本には切除された二四首が収録されているので、本書の親本系と想定される。また、上帖一三一丁(裏)の付紙「いはしろのゝ中さえゆく松風にむすひそへつる秋のはつしも」(一〇五四番)の歌の第四句「つる」は、六家集本では「たる」とある。本書では「たる」を擦消したうえに「つる」と改変している。そうなると、本書の成立した後、何らかの事情により、二四首の切除や改変がなされたことになりえるが、これについては今後の研究に俟ちたい。
 附【つけたり】とした三紙の断簡は、九三六番上の句「けふこそは秋はまつせの山おろしに」、九三八番「秋といへはゆふへのけしきひきかへて またゆみはりの月そさひしき」、九五〇番上の句「あきの夜のあまのとわたる月かけに」と、一二四六番「はるかなる月のみやこにちきりありて [あきのよあ]かすさらしなのさと」と、一三一〇番「みねのゆきとくらむあめのつれ[つれとやまへもよほ]すはなのしたひも」の歌で、ともに合点、頭注などがある。『拾遺愚草』の編纂過程がうかがえる史料として貴重であり、附として併せてその保存を図ることとした。
 本書は平安時代から鎌倉時代にかけての私家集古写本の大部分を伝える冷泉家時雨亭文庫中にあって、定家自筆本の三代集と併せて伝えられてきたもので、平安時代、鎌倉時代の私家集中、作者自撰の原本として唯一のものであり、その価値はきわめて高い。

江談抄

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