南嶺子越住筑前聖福寺諸山疏并江湖疏〈延文四年八月/(絹本)〉 なんりょうしえつじゅうちくぜんしょうふくじしょざんのしょならびにごうこしょ

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 南北朝

  • 南北朝
  • 2幅
  • 重文指定年月日:19920622
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 東隆寺
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 南嶺子越(一二八五-一三六三)は、臨済宗大覚派約翁徳儉の法嗣【はつす】で、入元のため西下の途中に長門守護厚東【こうとう】武実の招きを受けて宇部東隆寺の開山となった。子越はまた夢窓疎石の知遇を得て、東隆寺をもって長門の安国寺となし、諸山に列するなど、その伽藍の充実に努め、のち摂津福厳寺・博多聖福寺などに歴住し、晩年はまた東隆寺に戻り、貞治二年九月に七九歳をもって示寂している。
 この両幅は、子越が延文四年(一三五九)八月、室町幕府の命令によって筑前博多聖福寺住持に任命されて、入院【じゆえん】するに際して贈られた諸山疏と江湖疏で、共に絹本に書かれた正文である。
 諸山疏は、長州安国寺(東隆寺)住の子越に対し、大宰府管内筑州の近隣諸山の住持等が、九州第一山たる聖福寺への入寺を敦請し、天竺から中国へ来て禅を伝えた菩提達磨以来の由緒正しき子越の禅風を称揚し、その任命を謙遜のため辞退することなく、必ず受諾して就任されんことを勧めたものである。
 江湖疏は、足利直義の〓選による子越の聖福寺入山を慶び、江西湖南=天下一般の友人知己等が贈ったもので、子越の入院の一日も早からんことを願っている。
 両通とも、のちの掛幅に際して、巻末の諸山住持、友人知己の連署部分が除かれている点は惜しまれるが、共に本文は完存する。いずれも古体を存した四六駢儷体で、後世の入寺疏のような形式にとらわれた複雑さはみえないが、江湖疏中には「大覚初翁」などのいわゆる禅宗独自の機縁の語がみえてて注目される。
 禅宗入寺疏は五山文学中にも重きをなしたが、遺品としては伝来するもの少なく、貞和二年(一三四六)十二月、竺仙梵僊筆の「明叟斉哲開堂諸山疏」(国宝)が最古の遺品として知られている。本幅はこれにつぐもので、禅僧入院疏中の山門・諸山・江湖の三疏軸中の二幅を伝えて価値が高い。

南嶺子越住筑前聖福寺諸山疏并江湖疏〈延文四年八月/(絹本)〉

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