中尊寺文書 ちゅうそんじもんじょ

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 平安 鎌倉 南北朝 室町 安土・桃山

  • 平安~桃山
  • 68通
  • 重文指定年月日:19950615
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 金色院・大長寿院
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 岩手県平泉町の中尊寺に伝来した古文書で、中世東北における代表的な寺院文書である。天治三年(一一二六)三月廿五日藤原清衡【ふじわらきよひら】中尊寺経蔵別当職補任状案【きようぞうべつとうしきぶにんじようあん】以下、平安から安土桃山時代までの六八通を存する。その内訳は宝永三年(一七〇六)九月、仙台藩主伊達吉村の点検修理の文書目録に明らかで、うち一六通は光堂(金色堂)の別当寺である金色院が、また五二通は経蔵の別当寺である大長寿院が所蔵している。
 金色院の文書は光堂の所領や学頭職の関係文書などで、このうち正慶元年(一三三二)十月三日権少僧都某沙弥某連署問状は、鎌倉時代末期の中尊寺荒廃の状況とその原因を十一か条にわたり縷々述べており、奥州藤原氏滅亡後の中尊寺の衰退ぶりを具体的に示して注目される。また、鎌倉殿の代官として中尊寺に臨んだ奥州惣奉行【おうしゆうそうぶぎよう】の後裔葛西【かさい】氏の動向を知る上で不可欠な史料もみえている。
 大長寿院の文書には、経蔵初代別当である蓮光の保延六年(一一四〇)三月廿八日譲状案を始めとして、幸圓・永榮・朝賢・行盛等の経蔵別当による譲状が平安時代後期から南北朝時代にかけて多く残されており、経蔵別当職に関わる相伝の具体相を伝えている。また、経蔵別当領である磐井郡【いわいぐん】骨寺村に関する文保二年(一三一八)三月日経蔵領骨寺村所出物日記や骨寺村在家【ざいけ】日記などの文書群は、東北の中世村落の実態や「在家」の存在形態を解明する基本史料の一つである。
 このように、中尊寺文書は東北地方における寺院所領の実態と変遷を伝えるほか、南北朝内乱の様相をも併せ伝えて価値が高い。
 骨寺村(一関市本寺)は、磐井郡の西端山間部で磐井川流域の小盆地に位置し、中尊寺経蔵初代別当になった蓮光の往古私領として天治三年(一一二六)に経蔵へ寄進され、以後経蔵別当領として伝領された。この骨寺村をおのおの墨色や墨線のみで描いた二幅の絵図は、簡略図、記載内容の詳しい詳細図、および詳細図の紙背に描かれている差図からなっている。
 簡略図は骨寺村の自然地形や景観と略正確に一致し、本図の作成目的の一つが骨寺村の現実の地理的景観の把握にあったことが理解される。また、本図はその景観表現などからして鎌倉時代後期の作成になるものと考えられる。
 詳細図紙背の差図は骨寺村が中尊寺の経蔵別当領であるを示すために作成された絵図であることをよく示しており、山並みの描き方などの特徴からみても簡略図との共通点がみえ、簡略図と略同時代の鎌倉時代後期に一対の差図として作成されたことを伝えている。また、鎌倉時代後期の中尊寺の様相や伽藍配置【がらんはいち】を如実に伝える唯一の境内図として貴重である。
 詳細図は裏書外題【うらがきげだい】からみて南北朝時代における郡地頭葛西氏との山野をめぐる境相論の際に作成された可能性を伝えている。図中にみえる山並み、樹木等の筆法や四至境【しいしさかい】の注記からみて、南北朝期の作成になるものと認められる。
 この骨寺村絵図は東北における中世村落の景観を伝える絵図として他に類例のないものであり、村落の内部構造および中世所領の性格を考察する上にも重要な遺品である。

中尊寺文書

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