金色堂堂内諸像及天蓋 こんじきどうどうないしょぞうおよびてんがい

彫刻 / 平安

  • 平安
  • 重文指定年月日:19560628
    国宝指定年月日:20040608
    登録年月日:
  • 金色院
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 中尊寺金色堂の堂内壇上に安置される諸像と各壇中尊上に吊される天蓋である。天治元年(一一二四)八月二十日建立の旨を記す棟木銘によれば、金色堂は藤原清衡【きよひら】とその正室等一族により建立された。清衡(大治三年〈一一二八〉没)の遺骸が納められた中壇上には阿弥陀三尊、六地蔵、二天王各像が安置され、次いで二代基衡【もとひら】(保元二年〈一一五七〉ころ没)、三代秀衡【ひでひら】(文治三年〈一一八七〉没)の各遺骸も両脇の左右壇に納められその上に同じ構成の諸像が置かれた。その後、堂の朽損に伴って諸像の安置位置に錯綜が生じ、さらに元文三年(一七三八)から一〇〇年余前に阿弥陀像が盗まれるという事態も出来している。この阿弥陀像が中壇安置のものだったと記す文献があるが、すでに安置位置に混乱があったのだから、現中壇阿弥陀像が盗難後に他から移されたものと解する必要はない。
 左右壇どちらが基衡・秀衡の各所用かという問題とともに、諸像の本来の安置壇がどれかという議論は古くからあったが、近年の調査研究により構造の詳細がいっそうよく把握されるようになったことに伴い、作風分類の検討をも踏まえてより妥当な推論を行い得る段階になった。すなわち、法量が小さく印相も違う右壇阿弥陀像は他からの移入と考えられるので、それを除く三一体について観察すると、材質はヒノキ、ヒバ、カツラの三種とみられ、構造では割矧造、寄木造の両様があるが細部の異同も多少ある。そのなかで、中壇阿弥陀像が頭体正中で左右二材矧ぎ、左壇六地蔵像のうち一体がやはり左右二材矧ぎで残る五体は頭部を左右に割矧ぐという類似があり、また左壇阿弥陀像、右壇両脇侍像、中央壇六地蔵像のうち三体、中央壇二天王像がいずれもカツラ材という共通性がある。これに内刳りの仕方、雇衲の使用法、作風の違いなどを考慮して、三壇設立の年代差に対応させながら分類することも可能ではあるが、銘記等の確実な根拠がないのでより細かな同定はなお課題でもある。
 現時点で作風分類を行えば次のようになろう。中壇阿弥陀三尊像は丸顔のほどよい肉付けで、一二世紀前半、中央の円派仏師による作風の反映がある。これを基準にすれば、左壇二天王像のゆったりとした構えは共通のものがあり、また正中矧ぎの構造を含む左壇六地蔵像は、面相にやや角張った感じのものがあるが相近いともいえよう。一方、左壇阿弥陀像の細面の顔は右壇両脇侍像と軌を一にし、中壇六地蔵像の小振りな丸顔も同趣といえよう。中壇二天王像は同様に頭部が小さく細身の像容で、体を大きく捻るという動勢が基衡没時ころにあったかという疑問も呈されるが、永暦元年(一一六〇)ころの作との説のある福島・願成寺(白水阿弥陀堂)二天王像に似ていることからすればこれも同じ壇安置だった可能性はある。残る左壇両脇侍像、右壇六地蔵像、右壇二天王像の太り気味の体格は平安時代最末期の様相を示すともいえる。
 天蓋は中壇所用のものは総体透彫とし、左右壇所用のものは主要部浮彫(右壇分の一部透彫)、吹返し部透彫(左壇分は後補)とする相違変化は、時代の推移に伴うことをうかがわせる。
 当時京都で行われていた貴顕の葬堂に倣ったとみられる金色堂に安置の諸像は、ほぼ三〇年おきとなる三代各没時の様式変遷をよく示すが、そのような彫刻史的意義もさることながら、中央様式の比較的直接的な影響とともに在地独自の作風を加えて、平安時代後期における地方文化のあり方の一典型を示している。右壇阿弥陀像は盗難に遭った像の代わりに置かれたものと推測されるので、別保存されている堂内諸像所用の光背台座残片とともに附【つけたり】とする。

金色堂堂内諸像及天蓋

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