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因幡国庁跡

いなばこくちょうあと

概要

因幡国庁跡

いなばこくちょうあと

史跡 / 中国・四国 / 鳥取県

鳥取県

鳥取市国府町

指定年月日:19780721
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

S53-06-017[[因幡国庁跡]いなばこくちょうあと].txt: 鳥取県の東部、因幡国の国府は岩美郡、即ち現在の福部村と国府町を含む地域内にあったとされ、岩美平野と呼ばれる小平野内に国分寺跡や「法華寺」「庁」といった地名の遺存、整正な条里遺構等があって、国府がこの地域に所在したことは確実視されてきた。しかし国府の範囲や国庁の所在地は、因幡山を北に負い、今木山や面影山に囲まれた小範囲内に研究者により数か所の推定地が考えられており、いずれとも確定しがたかった。昭和48年以降、この地域の圃場整備事業の計画を契機として鳥取県教育委員会が発掘調査を実施してきた。
 調査の過程で白鳳期の瓦を出す字「大権寺」等で遺構の検出があったものの、従前は主に中世の遺構が多く実態は把握しがたかったが、昭和52年度、「大権寺」の西方の字「瀬戸田」「星ヶ森」附近に調査が及ぶとともに、大規模な建築遺構等が検出されるに至ったものである。
 遺構は、調査地区の中央に5間×4間の両廂付東西棟掘立柱建物を配置し、その北方に柱筋をそろえた5間×2間の東西棟建物、その北方に短い柵列を設け、整正な配置をとったものであった。これらの建物には建替えが指摘されているが、いずれも柱間8尺〜10尺をはかる大規模なものである。この地域から東69メートルには石を込めた南北通りの溝、西65メートルの地では木簡等を出土する溝があり、その間には幅広い石敷面がみられた。84メートル南方には、2間×7間の基壇をもつ掘立柱建物、その前後面の石敷を認めている。これらの内側には規模はまだ明確でないが堂々とした掘立柱の柱根や溝も存在している。したがって掘立柱建物等を配置した中核の建物群部とそれを取り囲む溝等、一定の規格的な配置をもつ遺跡であることが判明したのである。加えて溝中から「仁和2年仮文」の墨書をもつ題籤や木簡、多くの墨書土器や硯、石帯、荷札状木製品、糸巻等多くの出土品がみられた。
 調査はいまだ全域に及ばないものの両廂付の中心建物を中心として方150〜200メートルの範囲を対象とする地区割の存在が予測される。その遺構や遺物の示すところからみて平安時代初期の因幡国の国庁あるいはその一部とみられ、その発展や変遷をたどりうるだけでなく、地方官衙の在り方をよく示すものである。現実に律令時代の国庁が確認された例は全国的にも数少ないだけに単に古代の因幡国の歴史を窺うだけでなく、広い視野から地方官衙を考えていく上で極めて貴重な遺跡といえる。

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キーワード

国府 / / 掘立柱 / 官衙

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