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安国寺集落遺跡

あんこくじしゅうらくいせき

概要

安国寺集落遺跡

あんこくじしゅうらくいせき

史跡 / 九州 / 大分県

大分県

国東市

指定年月日:19920403
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

瀬戸内海西部に突出する国東半島は、両子山を中心とする一大火山であり、その山麓を多くの谷が開析している。安国寺集落遺跡は、このうちの田深谷の南側にあり、海岸より約二キロメートルに位置する弥生時代から古墳時代初頭の遺跡である。この付近には、海岸段丘が発達し、海岸には砂丘も形成されている。本遺跡の周辺には田深川が段丘を形成し、谷の両側の丘陵裾には小規模な扇状地がみられる。遺跡は、このような扇状地の扇端部に立地し、扇状地を刻む小さな谷は、遺跡を取り囲む自然河川とその水源となっている。またこの地は、中国・四国地方を指呼の間に見渡す海上交通の至便の地でもある。
 本遺跡は、大正十五年から昭和二年に実施された耕地整理事業の際に、多数の土器や大きな樹根が発見されて注目されることとなった。そして、戦後間もない昭和二十四年に、賀川光夫、鏡山猛らによって試掘調査され、多量の土器・木器などが良好に包含されていることが明らかになり「西の登呂」と評価された。以後、昭和二十五から二十七年に五次にわたって九州文化総合研究所と大分県教育委員会によって合同調査が実施された。発掘は、九州考古学界の総力と地理・地質・植物学の助力をえて大々的に行われ、この調査研究は九州地方の弥生時代研究の基礎となった。土器については東九州地方の弥生時代後期から古墳時代前期の土器形式『安国寺Ⅰ〜Ⅱ式』の基準資料となった。また遺跡での生業については、耕地面積の狭い脆弱な水稲耕作がおこなわれていたこと、海と山に近い遺跡立地や出土した動植物遺体の特徴から狩猟・漁撈・採集にも大きく依存していたことが明らかにされた。
 さらに昭和五十八年と昭和六十年から四年間、遺跡の規模や性格を明らかにするため、再び発掘調査が実施された。新たに花粉分析、プラントオパール分析などを含めた多くの学術関係者、県・町の教育委員会によって総合的な調査体制が組織され、遺跡の実態をより明白にした。すなわち、かつての調査で三〇〇余の柱穴から成る高床建物群と考えられる第一住居跡群とその周囲を取り巻く大溝跡が検出されていたが、さらに大溝の広がりや状態を確認することに主眼がおかれた。その結果、中央の第一住居跡群を囲み西側が開くU字形の大溝は、深さが約二メートルあり、幅は北側で約二二メートル、東から南側では約一一メートルであることが明らかになった。これは基本的に自然の流路を利用したものであるが、一部の壁は人工的に掘削され、田深川への放水溝も切られていた。大溝には有機質混じりの黒灰色や暗茶褐色の粘土層が堆積しており、南東隅には倒壊した建物の建築材が投棄されたか崩れ落ちた状態で、多数の土器・農耕具などと共に発見された。この大溝は主に弥生時代後期から終末に営まれ、弥生時代の終末から古墳時代の初頭に埋没した。住居も含め遺跡は、主にこの時期に相当する。
 建築材には、仕口のある材、丸梯子、角材、板材、丸太材があり、建物の復元が試みられている。なお、それらの樹種はイタジイ・ツブラジイ・カシ類・クスノキなどのいわゆる広葉樹であった。木製品は、ナスビ形又鍬を主体とし、平鍬、手斧柄、杓子、盤などが豊富に出土している。土器は、特徴的な複合口縁の壺、短頸壺、長頸壺、甕、鉢、台付き・脚付き鉢、高坏、器台などがある。石器は、礫をそのまま利用した台石、敲石、凹石を主体とする。この他、ムギ・イネなどの農作物、オニグルミ・クリ・ドングリ・トチノミなどの種実が発見され、当時の生業、食生活の詳細が解明されつつある。
 このように本遺跡は、『安国寺式土器』の標式遺跡であるなど学史的に極めて重要であると共に、全国的にも類例の少ない質量とも良好な建築材、あるいは木製品などを包蔵する貴重な遺跡である。よって、これを史跡に指定してその保存を図ろうとするものである。

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