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深大寺城跡

じんだいじじょうあと

概要

深大寺城跡

じんだいじじょうあと

城跡 / 安土・桃山 / 室町 / 関東 / 東京都

東京都

中世

調布市

指定年月日:20070726
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の東側には開析谷によって形成された90m幅に及ぶ湿地帯が広がり、西側にも湧水を集めた支谷があり、南側は比高約15mを測る国分寺崖線によって画され、南方に多摩川とその対岸を望見することができる。城跡の北側の谷を挟んで古刹・深大寺が所在する。
 深大寺城跡は、戦国時代、関東の覇権を争う小田原北条氏と扇谷上杉氏の攻防のなかで、扇谷上杉氏方が造営した城跡である。文献に深大寺城の名が見えるのは戦記物『河越記』が初見とされ、『相州兵乱記』『北条記』『北条五代記』『鎌倉九代後記』にも記述がみえる。それらによると、深大寺城は、大永4年(1524)北条氏綱によって重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、家臣の難波田弾正に命じて天文6年(1537)、多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城跡に対抗する位置に所在する「深大寺のふるき郭」を再興したものとされる。しかし北条氏綱は深大寺城を攻めずに同年7月、直接扇谷上杉氏方の河越城を攻め、朝定は松山城跡に敗走した。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義は喪失、そのまま廃城となったと考えられる。
 深大寺城跡に考古学的調査が入ったのは昭和33年以降であり、昭和44年まで深大寺城跡調査団によって発掘調査・測量調査が断続的に実施され、その後、平成6、7年に東京都教育委員会により、平成17、18年度には調布市教育委員会によって発掘調査が行われた。それらによれば、城の縄張りは南北方向の堀と土塁により遮断された直線連郭式で、舌状台地最東端の土塁に囲まれた第1郭が主郭と考えられ、その西側の郭の2郭、さらに3郭が続く。第1郭は郭のほぼ全周に土塁を廻らし、北東から南東にかけて自然の崖を障壁とし、北西から南西までの第2郭との間に堀を設ける。堀は北端と南端で崖に掘り落としてあり、その深さは7〜8mに及ぶ。郭内部の規模は東西約50m、南北約90mを測る。土塁は北西付近で屈曲し、この屈曲部は西側にやや張り出した構造となっており、櫓台とも考えられる。土塁北側中央部に虎口が開く。東側土塁の斜面中腹には細長く延びる腰郭が付く。郭内で掘立柱建物4棟が検出されている。第2郭は、第1郭との間の空堀と約50m西側に掘られている堀との間に位置し、北東から南西まで約120m、東西間は約50mの規模である。土塁・堀を伴い、郭南辺の土塁中央部に虎口が開く。掘立柱建物9棟を検出した。第2郭では2時期の堀跡が確認された。第3郭は、東西幅約100m、南北幅は土地の改変があり不明である。土塁・堀が確認され、南西付近に虎口があったものと考えられる。
 城跡から出土遺物は多くはないが、1500年以前、下っても16世紀前半代の青磁碗、瀬戸・美濃系天目茶碗、擂鉢などが出土し、2時期検出した堀跡の存在なども合わせると、第1期堀の構築時期に相当すると考えられる文献に知られる「ふるき郭」が15世紀代に築造され、第2期堀や建物など現存する城郭遺構が構築されたと判断できる16世紀前半期の段階が、扇谷上杉朝定の築造した段階に相当するものと思われる。また、武蔵国内の多くの城館が小田原北条氏の勢力下で改変されている中、深 大寺城では改変は認められず、扇谷上杉氏系の築城技術を残すものと考えられよう。
 このように、深大寺城跡は、16世紀前半、南関東を舞台に繰り広げられた小田原北条氏・扇谷上杉氏攻防のなか扇谷上杉氏が築造した城跡であり、小田原北条氏による改変を受けず扇谷上杉氏系の築城技術を残す16世紀前半期までの希少な城館と考えられ、関東における戦国大名及び城郭の変遷を知る上で貴重なものであることから、東西約230m、南北約250mの範囲を史跡に指定して保護を図ろうとするものである。

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