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多賀城碑〈天平宝字六年十二月一日/〉

たがじょうひ

概要

多賀城碑〈天平宝字六年十二月一日/〉

たがじょうひ

その他 / 奈良 / 東北 / 宮城県

宮城県

奈良

1基

宮城県多賀城市

重文指定年月日:19980630
国宝指定年月日:
登録年月日:

国(文化庁)

国宝・重要文化財(美術品)

 陸奥国宮城郡(現多賀城市)に所在した多賀城は、八世紀以来陸奥国府が置かれ、奈良時代には東北経営の軍事的拠点鎮守府も併置されていた。
 多賀城碑は、多賀城跡の外郭南門に近い小丘陵上にある。材質は花崗岩質砂岩で、ほぼ真西向きに垂直に立っており、上端が半円形を呈し、一面をほぼ平らにして文字を刻む。碑面上部に「西」字を大字で刻み、その下の長方形の匡郭内に一一行、一四〇字を彫り込む。内容は、京など各地から多賀城までの里程、神亀元年(七二四)按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人による多賀城の創建、天平宝字六年(七六二)仁部省兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝〓による修造、および天平宝字六月十二月一日の日付を記す。
 多賀城碑は江戸時代の寛文・延宝年間からその存在が知られ始め、土中からの出土とも伝える。当初から歌枕の壺の碑とみなされて多くの人の関心を呼び、元禄二年(一六八九)には松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途次に立ち寄っている。のちに徳川光圀の注目するところとなり、仙台藩でもその調査が行われている。しかし一方で、内容等に対する疑問も出され、明治時代に入ると江戸時代の偽作ではないかとする説が出されて、論争が行われたが、その決着はつかず、種々の疑問点を残したまま、論争は大正期までで一応終息した。
 しかし、昭和四十四年以後、継続的に行われた発掘調査で明らかにされた創建時期や規模、構造などが、碑文の内容と矛盾しない。調査を契機に、碑の問題点について再検討が始まった。その結果、①文字の彫刻方法はすべて同じで、同時に彫られたこと、②書風・書体に関しては正倉院文書や木簡などにみられるものと一致し、当時の文字として不自然でないこと、③里程については、偽作であればあえて誤りとわかる距離を記さないであろうこと、④「靺鞨国」号については、渤海国に多く居住する靺鞨族あるいはその国家としての渤海国を指すと考えられること、⑤大野東人の官位は多賀城で活動中のころのものとみられること、⑥朝〓の位階は修造を行った朝〓を顕彰する意味をもっていることなどが明らかにされ、多賀城碑は近世の偽作ではないと認識されるに至った。
 これに加えて、最近行われた覆屋の解体修理に際しての碑の周囲の発掘調査では、近世初期に碑が据え直されたことを示す掘形とともに、古代建築の礎石据え付け穴と同様の技法を示す跡が確認できたことで、碑は建立当初からこの場所にあった可能性が強まった。
 このように、多賀城碑は奈良時代当時のものとして、多賀城と古代東北を解明するうえで重要であり、また数少ない奈良時代の金石文として価値が高い。

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