はねがわとうえい
江戸時代/寛延元年(1748)ごろ
紙本著色
69.7×91.2cm
池長孟コレクション
容儀を正して行進する朝鮮通信使を透視図法をとり入れて描く。このような構成の絵画は、1740年代に流行し、画中の事物が立体的に見えることから「浮絵(うきえ)」と呼ばれた。本図は将軍職の交替の際などに来日した朝鮮通信使のうち寛延元年(1748)第10回の通信使を描いていると推定される。轎(かご)に乗った要人と、その一行が将軍への挨拶(あいさつ)を終えて、使館の浅草本願寺へ戻るため常磐(ときわ)橋を渡り、本町(ほんちょう)2丁目を過ぎていく情景を描いている。異国趣味あふれる通信使の容儀や、幕を張り屏風をたてた桟敷(さじき)で見物する群集の描写に筆者の羽川藤永は重点を置き、一種の記録画の雰囲気をたたえる。本図の収納箱の貼紙からこの図が徳川吉宗の第二子、田安宗武の子で、宝暦3年(1753)に9歳で夭折(ようせつ)した小次郎(孝慈院)の愛玩の作品であったことが推定できる。入念な細部描写、金箔(ばく)を多用した仕上げなど本図はとくに上質の浮絵で、その後に出現する奥村政信、西村重長など同主題作に先行する作例である。