文化遺産オンライン

骨寺村荘園遺跡

ほねでらむらしょうえんいせき

概要

骨寺村荘園遺跡

ほねでらむらしょうえんいせき

史跡 / 東北 / 岩手県

岩手県

一関市

指定年月日:20050302
管理団体名:一関市(平18・8・8)

史跡名勝天然記念物

骨寺村荘園遺跡は岩手県南部、奥州藤原氏の拠点平泉の西約15kmに位置する、中尊寺経蔵別当の所領である。中世の骨寺村に関しては、重要文化財に指定されている二葉の「陸奥国骨寺絵図」と文書とが中尊寺に伝えられており、村の範囲や景観、内容を具体的に知ることができる。二葉の絵図はともに共通した構図で、縦長の図に東から西を鳥瞰した村を描いている。その四至は『吾妻鏡』文治5年(1189)条に見える「東鎰懸、西山王窟、南岩井河、北峯山堂・馬坂」と一致する。絵図の上部には遠望できる栗駒山、山王窟の山々、中央に中心部の盆地、左側に磐井川とその対岸の山稜、右側に盆地北側の山稜を描く。「詳細絵図」「在家絵図」などと称される絵図は、水田や家の形まで図像として詳細に描き、村の景観を具体的に示す。一方「簡略絵図」「仏神絵図」と称される絵図は、全体を比較的簡略に描き、神仏田などの宗教施設を記している。図中には、骨寺跡、六所宮、ミタケ堂跡、白山、不動窟、若神子社、慈恵塚などが文字と図で記されている。ともに年代は不詳であるが鎌倉時代とされている。
骨寺村の中心地はその遺称地、本寺地区であり、東西に流れる磐井川沿いの小盆地にある。東西約3km、南北約1kmの広さがあり、標高は140mから180mで西から東に緩く傾く。盆地の南北は比高25m以上の河岸段丘崖、北は東西に連なる丘陵に挟まれ、その東端で磐井川と丘陵が迫る狭隘部、絵図の「鎰懸」となる。西側は絵図の正面に位置する台地がある。その裾中央に六所宮の説もある駒形根神社、中腹に白山社が鎮座する。ここから約3km西方に山王窟がある。磐井川に面してそそり立つ岸壁の上部に岩屋があり、その背後の谷には奇岩が屹立している。北側の丘陵には「ミタケ堂跡」と伝える岩場、不動窟、慈恵塚、「馬坂新道」と推定される道があり、慈恵塚が所在する丘陵下にはその拝殿の大師堂が現存する。盆地中央には帯状の微高地が東西に延び、その北側に本寺川が流れ、南側に絵図の「中澤」に比定される谷がある。盆地中央の水田内には若神子社の林が目立って見える。屋敷林を伴う現在の宅地は、中央の微高地と北側の丘陵裾に分布し、絵図の在家と同様である。現に北側丘陵裾に立地する梅木田遺跡と遠西遺跡では、遺物や柱間寸法から中世と推定される掘立柱建物が発掘されている。また、北側の丘陵上には中世後期の山城と推定される要害館跡がある。現在、宅地周辺に畑があるほかは一面の水田である。このような状況は、磐井川から取水する近世の下り松用水の開削、大正期の揚水機設置によって形成されたものであり、中世における用水源は北側の山水、本寺川、中澤の谷水しかなく、水田面積は限られていたと推測される。しかし、これまで圃場整備は行われておらず、駒形根神社を起点とした現在の用水体系の基礎は中世にさかのぼる可能性があり、不定形の水田区画に往時の面影をとどめている。
このように骨寺村荘園遺跡は、中世の村落景観を具体的に描いた貴重な絵図と文書が残されているとともに、絵図に描かれた寺社や岩屋などの施設が現存している。また、東北地方の中世村落でかつ平泉の中尊寺を支えた荘園の具体的様相を知る上で欠くことのできない遺跡であるばかりか、大規模な開発がなされず周辺の地形や環境、景観がともに極めて良好に保存されており、現地で絵図の世界を実際にうかがうことができる稀有なものである。よって、荘園遺跡を構成する山王窟、不動窟、白山社、駒形根神社、伝ミタケ堂跡、若神子社、慈恵塚、大師堂、梅木田遺跡、遠西遺跡、要害館跡について史跡に指定し保護を図ろうとするものである。

骨寺村荘園遺跡をもっと見る

国指定文化財等データベース(文化庁)をもっと見る

キーワード

平泉 / 中世 / 遺跡 /

関連作品

チェックした関連作品の検索