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明治9年地租改正地引絵図及び取調野帳・地所調帳

めいじきゅうねんちそかいせいじびきえずおよびとりしらべやちょう・ちしょしらべちょう

概要

明治9年地租改正地引絵図及び取調野帳・地所調帳

めいじきゅうねんちそかいせいじびきえずおよびとりしらべやちょう・ちしょしらべちょう

絵図・地図 / 明治 / 九州 / 佐賀県

不明

佐賀県

明治時代初期/1876

地引絵図は、田、畑、宅地、川、道などの位置が一目瞭然となるように、色分けされている。宅地(赤)・寺社(黄)などで、地図に凡例がついているものもある。また、図の余白には戸長・副戸長・立会人、作製年月日、方位などが記載されているものもあり、だいたい様式は同じとなっている。
絵図は、約600分の1の縮尺で作製され、一筆ごとの地図にまとめられ、順次繋ぎ合わせて作製されたとみえ、何枚もの和紙を張り合わせて作られている。どの絵図も全体の大きさが縦横数メートルに及んでおり、特に音成区ものは、長さが9m以上ある。表紙となる部分には厚紙の表紙が付けられ、蛇腹折りで40×30㎝ほどの大きさに折りたたまれている。

 「取調野帳・地所調帳」は「地引絵図」を作製する上での基礎資料である。測量の際に記されたもので、これらによって、土地の所有者・面積・地価等すべてわかる。
各地区で表紙を付けており、厚さは平均3~5センチほどある台帳である。

【地租改正地引絵図】8枚
三十八大区四小区藤津郡八本木村甲絵図                      タテ424×ヨコ308cm
三十八大区四小区藤津郡八本木村乙絵図(河北分絵図)             タテ213×ヨコ253cm
肥前国第三十八大区三小区藤津郡森村絵図                    タテ203×ヨコ260cm
肥前国第三十八大区三小区藤津郡中村絵図                    タテ183×ヨコ333cm
肥前国第三十八大区三小区藤津郡井手村絵図                   タテ170×ヨコ281cm
行成村                                            タテ77 ×ヨコ203cm
音成村                                            タテ452×ヨコ132cm
嘉瀬浦村                                           タテ948×ヨコ132cm

【取調野帳・地所調帳】 153冊
タテ26cm×ヨコ18cm

【追加】

【地租改正地引絵図】1枚
タテ140×ヨコ280cm、飛地タテ100×ヨコ92cm
【取調野帳・地所調帳】 (三部地区)19冊
タテ26cm×ヨコ18cm

【取調野帳・地所調帳】(土井丸地区) 8冊
タテ26cm×ヨコ19cm

8枚(絵図)、153冊(取調野帳・地所調帳)
【追加】1枚(絵図)、27冊(取調野帳、地所調帳)

鹿島市大字納富分2700番地1ほか

鹿島市指定
指定年月日:20130501

鹿島市役所ほか

有形文化財(美術工芸品)

「明治9年 地租改正地引絵図及び取調野帳・地所調帳」は、明治6年(1873)の地租改正令によって作製されたもので、明治9年(1876)頃に作製された鹿島市内の地引絵図と、その測量の元となった土地台帳を中心とした一括資料である。
「地租改正地引絵図」とは、明治初期の地租改正時に全国的に作製されたもので、我が市初の近代測量図である。この絵図は、それまでの村絵図とは違い、平面的で記号的となり、土地区画のひとつずつの境界・地番などを描いた詳細なものであるが、江戸時代の村絵図の特色も残されており、江戸と明治をつなぐ地図ともいえる。
「取調野帳・地所調帳」はその測量の元になった資料で、「取調野帳」には、測量図・所有者名・地番・地価などが詳細に記されており、「地所調帳」は所有者と地番が記されている。この地番は現在の地籍のもととなっている。

佐賀県における地租改正作業は、明治7年(1874)の佐賀の乱の影響で一時中断され、現在の佐賀県域が当時の長崎県に再編された明治9年にこの地引絵図が作製された。この絵図は、先行研究があまりなされていないせいか、全国的に見ても確認数は少なく、佐賀県内では、佐賀市の嘉瀬町・大和町に一部残すのみで、ほとんど確認されていない※1。鹿島市においても今回の調査で見つかったのは7地区8枚のみである※2。
今回調査を行なった「明治9年 地租改正地引絵図及び土地台帳」は、明治9年頃に作製され、所管庁である長崎県へ提出された地引絵図の正本に対する副本として残されたものである。しかし、この絵図は、短期間で作製されたこと、素人の土地所有者等が測量を行い、官吏(かんり)が検査するという方法を採ったこと、当時の測量技術が未熟であったことから面積や形状が必ずしも現地と整合しておらず、精度が低い。そのため、明治18年から22年にかけ、絵図の更正が行なわれ、その際作製されたのが、先に指定文化財となった「明治期の地籍図」である。おそらく、明治22年の地籍図が作製された時点で、これら絵図と台帳は役目を終えたと思われ、その後は、各地区において保管されていた。

【追加】
今回指定の三部地区、土井丸地区以外にも、前回の調査により、平成25年に地租改正地引絵図8枚、取調野帳・地所調帳153冊がすでに指定を受けている。

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