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日向国府跡

ひゅうがこくふあと

概要

日向国府跡

ひゅうがこくふあと

史跡 / 九州 / 宮崎県

宮崎県

西都市

指定年月日:20050714
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

日向国府跡は宮崎県のほぼ中央部、一ツ瀬川が形成した河岸段丘上に位置する古代の官衙遺跡である。周辺には多数の遺跡が点在しており、日向国分寺跡、国分尼寺跡や特別史跡「西都原古墳群」も所在している。
国府の所在地については諸説があり、長らく不明であったが、昭和63年度から平成12年度にかけて、宮崎県教育委員会が国府、郡衙、古寺跡等遺跡の分布調査と確認のための発掘調査を実施した。平成10年度に、周辺では最も多量の瓦が散布していることから国府の有力な推定地の一つであった寺崎遺跡において実施した発掘調査では、桁行2間分ではあるが、南北廂付東西棟建物を確認した。この建物は桁行、梁行ともに柱間寸法が2.85m(9.5尺)で、掘立柱建物から礎石建物へと建替えがあり、規模的にも国庁正殿の一部と推定される。また、その他の掘立柱建物等も確認し、多数の瓦も出土していることから、この場所が日向国府跡である可能性が高くなった。その後の調査で、東脇殿と推定される梁行2間の南北棟建物を桁行8間分確認したことや、北、西、南面の築地等も検出し、部分的な調査ではあるが遺構の分布状況がある程度明らかになった。
これら主要部分の遺構については、Ⅰ期からⅣ期の変遷がある。Ⅰ期には梁行2間、桁行が10間と7間以上の東西に並ぶ2棟の掘立柱東西棟建物や溝がある。年代は7世紀末から8世紀後半で、この時期の土器に「主帳」と墨書したものがあり、郡衙的な機能も想定される。Ⅱ期は8世紀末から9世紀初頭で、2条の掘立柱列が並ぶ回廊状の遺構と溝を確認している。Ⅲ期は国府が本格的に整備された時期で、Ⅲa期とⅢb期に分けられる。Ⅲa期は9世紀初めから中頃で、正殿及び脇殿は掘立柱建物であり、周囲は築地で区画する。正殿は全体の配置関係から、桁行7間もしくは9間の規模になると推定される。Ⅲb期は9世紀後半から10世紀前半で、正殿を四面廂付の礎石建物、脇殿も掘立柱建物から礎石建物へと建替えられ、築地も改修する。正殿及び脇殿の周囲には瓦の分布が濃密で、これらの建物は瓦葺であったと推定される。築地に囲まれた範囲は、南北約96m、東西は不確定であるが、約120mと想定される。Ⅳ期は10世紀中頃から後半で、南側柱に掘立柱塀が取り付く梁行3間、桁行5間の北廂付掘立柱建物と、梁行2間、桁行2間以上の礎石建物、及び溝がある。
出土遺物には、多量の瓦や土器、畿内系の土師器、円面硯、墨書土器などがあり、官衙的様相を示す。また、墨書土器には「国厨」とも読めるものがあり、この地が国府であることを示唆している。
日向国府跡は主要な施設の配置関係がほぼ判明し、遺構の残存状況も良好である。国府が本格的に整備されるのは9世紀になってからであり、国府造営の実態を良く示すとともに、古代日向国の政治情勢を考える上で重要である。

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キーワード

国府 / / 掘立柱 / 官衙

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