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しぐれ

概要

しぐれ

日本画

木島桜谷  (1877-1938)

コノシマ、オウコク

明治40年/1907

彩色・紙本・屏風6曲・1双

各151.0×357.0

右隻右下に落款、印章; 左隻左下に落款、印章

1回文展 元東京勧業博覧会美術館 1907

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木島桜谷《しぐれ》

一九〇七(明治四〇)年
紙本淡彩 屏風六曲一双
各一五一・〇×三五七・〇cm
第一回文展(一九〇七年)
東京国立近代柔術館

木島桜谷が就いた今尾景年は鈴木百年に学んだうえに、さらにさまざまの流派の技法を咀嚼しながら独自の画風を開いた画家である。京都の写生派の伝統を受け継ぎ、花鳥画に優れたものがあり、京都の染色業界でも大いに重用された。そのせいか桜谷もどちらかといえば、人物画より花鳥画を得意としていたようである。その画風は伝統的な写生を重んじ、季節のなかで移ろいゆく自然の風趣を巧妙に写しとったものであるが、とくに日本画にした場合、どこか構えた生真面目さがつきまとっている。あえて言えば、小品には窺える京都的な洒脱な気分がやや薄いということも言えよう。
《しぐれ》はその意味では、円山四条的な筆意を衒うことなく素直に伝えている作品のひとつであろう。魔の群が秋の野に遊んでいるところへ、折から秋雨が降り出す。すすきをはじめとする枯草が辺り一帯を覆い、空からは枯葉が舞い落ちる。子鹿の表情も愛らしく、どこまでも嫋々として佗びしさの漂う晩秋の気配を巧みに描き出している。京都風の写実に抒情性を溶け込ませた、詩情豊かな自然観照の世界ということができよう。東京朝日新聞紙上で瀧節庵は「草が乱脈で、恰も秣を散乱したる如見ゆるのが悪い」と言いながら、「《志ぐれ》は鹿の形相と配置とが面白く、手法も活達で萎縮の病なきを賞す」と評している。それでも最後の「京都の出品中にては栖鳳に次ぐべき佳作」という一文に、桜谷の京都画壇で置かれた位置が予言されていたようにみえる。この作品は二等賞の首席となったが、横山大観が菱田春草の《賢首菩薩》を推して審査会で激論が闘わされたことはよく知られている。
木島桜谷は一八七七(明治十)年京都に生まれる。一八九三(明治二十六)年に今尾景年の門に入り、かたわら儒医の山本溪愚に漢詩を学んだ。初め京都後素会が主催した全国絵画共進会や、京都美術協会が主催した新古美術品展に人物画や動物画を出品した。その後、文展や帝展を中心に活躍、審査員もたびたび務めた。しかし、孤独を愛して周囲とあまりつきあうこともなく、そのためか竹内栖鳳やその一門が京都日本画の近代化を積極的に押し進めていくなかで、画家としてはやや不遇な生涯を送ったと言えよう。晩年は明治神宮絵画間の作品を制作した以外は、やや画壇を離れたかたちで、孤高ともいえる生活を送った。一九三八(昭和十三)年に歿。(尾崎)

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文展 / / 出品 / 京都

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