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津田古墳群

つだこふんぐん

概要

津田古墳群

つだこふんぐん

古墳 / 古墳 / 中国・四国 / 香川県

香川県

古墳前期

香川県さぬき市

指定年月日:20131017
管理団体名:さぬき市(平26・3・24)

史跡名勝天然記念物

津田古墳群は、香川県の東部、播磨灘を望む津田湾臨海部を中心とした東西4.5キロメートル、南北3.5キロメートルの範囲に、古墳時代前期初頭から古墳時代中期初頭まで連綿と造られた9基からなる古墳群である。この古墳群は既に江戸時代に記録があり、大正年間から戦前においても発掘調査などの記録が残されていることから、学史的にも重要な存在であった。こうした状況を踏まえ、さぬき市教育委員会では平成16年度から23年度にかけて、測量調査及び発掘調査を行った。その結果、この古墳群が一体性をもって築かれたことがより明らかとなった。
 津田古墳群は6基の前方後円墳と3基の円墳からなる。うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、赤山古墳、岩崎山4号墳、けぼ山古墳が前方後円墳であり、一つ山古墳、龍王山古墳、岩崎山1号墳が円墳である。
 うのべ山古墳は墳長37メートルの前方後円墳で、前方部は撥形に広がる。墳丘構造は四国東部に特徴的な積石塚である。埋葬施設は未調査だが、墳丘上から出土した土器の年代から、3世紀後半に築造されたと考えられ、香川県内でも最古級の古墳といえる。
 川東古墳は墳長37メートルの前方後円墳で、これも墳丘は積石によって築造されている。墳頂には2カ所の盗掘坑が存在するが、埋葬施設の詳細は不明である。墳丘からはわずかに壺形埴輪片が出土しており、その年代から4世紀前半の築造と推定される。
 古枝古墳は墳長34メートルの前方後円墳で、前方部は撥形に開く。後円部墳頂において昭和37年に発掘調査が行われており、東西方向に竪穴式石室1基、木棺直葬1基が並列していることが確認されている。竪穴式石室からは中国鏡や玉類が、木棺からは中国鏡や玉類のほかに鉄鏃が出土し、築造は4世紀前半と考えられる。
 赤山古墳は、現在では後円部のみが残存しているが、本来は墳長50メートル前後の前方後円墳であることが判明した。墳頂には割竹形石棺2基が露出しており、1基は東西方向で、もう1基は南北方向を示している。この他にも竪穴式石室1基の存在が過去の文献において指摘されており、青銅鏡や腕輪形石製品などが出土品として伝えられている。墳丘から出土した円筒埴輪や、その他の出土品の年代から、4世紀前半に築造されたと推定される。
 一つ山古墳は南北27メートル、東西25メートルのやや楕円形を呈する2段築成の円墳であり、墳丘の一部に葺石が認められる。墳頂中央部には南北方向に割竹形石棺1基が直葬されている。墳丘より出土した壺形埴輪の年代から、4世紀中頃の築造と考えられる。
 岩崎山4号墳は墳長62メートルの前方後円墳で、津田古墳群中では最大の古墳である。昭和26年の調査において、墳頂に南北方向を示す竪穴式石室1基が確認され、中には割竹形石棺が納められていた。副葬品として青銅鏡や貝輪、腕輪形石製品や鉄剣・鉄刀、銅鏃・鉄鏃、鉄製農工具などが確認されている。墳丘からは円筒埴輪のほか、家形埴輪などが出土している。これらの年代から、4世紀中頃の築造と考えられる。
 龍王山古墳は直径25メートルの円墳である。墳頂には南北方向に全長5.9メートルの竪穴式石室1基が露出しており、大正年間に青銅鏡、鉄鏡、鉄刀が出土したとの記録がある。墳丘からは壺形埴輪と円筒埴輪が出土しており、4世紀後半の築造と考えられる。
 けぼ山古墳は墳長55メートルの前方後円墳で、後円部墳頂には割竹形石棺の蓋の破片が確認されており、大正年間には人骨や青銅鏡、鉄刀や玉類が出土したとの記録があるが、埋葬施設そのものの詳細は明らかではない。墳丘からは壺形埴輪が出土しており、その年代から4世紀後半に築造されたと推定される。
岩崎山1号墳は直径19メートルの円墳であり、墳頂には南北方向に箱式石棺2基が並置されている。これらは昭和2年に発掘調査され、人骨のほか、鉄刀や鉄剣、滑石製模造品、鉄製農工具などが出土した。墳丘からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が出土しており、それらの年代から4世紀末の築造と推定される。
 このように津田古墳群は、古墳時代前期初頭から中期初頭にかけて連続して築造された。当初は積石による墳丘や東西方位を指向する埋葬施設など、四国東部固有の特徴が認められるが、前期中頃になると円筒埴輪の導入や埋葬施設が南北方位に変化するなど、畿内地域の影響を受けることとなった。つまり、津田古墳群は古墳成立期における地域社会の独自性を表すとともに、それが畿内地域からの影響を受けて変容していく過程を示す貴重な事例である。また、津田古墳群に見られる割竹形石棺は、この地域で産出する火山石で製作されているが、同じ火山石製石棺は、畿内・吉備・阿波地域にもたらされるなど、津田古墳群の被葬者たちが海を介して他地域との交流を行うとともに、古墳群の立地の点からも海上交通を重視していたことが窺える点で、希有な例といえる。そして古墳時代中期に内陸部に墳長139メートルで四国最大の前方後円墳である史跡富田茶臼山古墳が出現すると、津田古墳群では古墳の築造が停止する。これは、当該期にこの地域で生じた大きな政治的統合がなされたことを如実に示している。
 以上のように、津田古墳群は四国における古墳時代前期を代表する古墳群として重要であり、当該地域の政治状況を知るうえでも重要であることから、史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。

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