世界遺産と無形文化遺産

我が国の暫定一覧表記載資産(11件)

「古都鎌倉の寺院・神社ほか」(神奈川県、平成4年)、「彦根城」(滋賀県、平成4年)、「平泉の文化遺産」(岩手県、平成13年)、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県、平成19年)、「富士山」(静岡県・山梨県、平成19年)、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」(奈良県、平成19年)、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県、平成19年)、「国立西洋美術館本館」(東京都、平成 19年)、「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道・青森県・岩手県・秋田県、平成21年)、「九州・山口の近代化産業遺産群」(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県・山口県、平成21年)、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県、平成21年)

古都鎌倉の寺院・神社ほか

鎌倉は、1192年に武家がはじめて政権をおき建設した都市です。立地は東・西・北を丘陵で囲まれ、南は海に面しており、防御に適した土地でした。武家政権は約150年にわたってこの都市から全国を支配し、政治・経済・文化の中心となりました。ちなみに世界帝国モンゴルの日本列島侵攻を撃退したのはこの鎌倉にあった武家政権です。

日本の武家政権は、1192年から1868年まで存続し、その間に政権を置いた都市として鎌倉と江戸を建設しました。しかし、江戸はその後、近代都市東京に変貌し、今日では武家文化を偲ばせる文化遺産をまとまって残す地域は鎌倉のみとなりました。

現在の鎌倉には、かつての都市計画の中心となった鶴岡八幡宮とその正面に延びる若宮大路が残っており、周囲の山際には、建長寺・円覚寺・高徳院・永福寺などの寺院や、当時の権力者の屋敷跡が散在します。周囲の丘陵には外部に通じる交通路であった険しい切通し道(鎌倉七口)が現存し、海岸には港の遺跡である和賀江島が残っています。

彦根城

日本の城郭建築は16世紀中頃に確立しました。彦根城は17世紀初頭の城郭建築最盛期の遺産であり、防御的部分や城主の居鰭部分を含めて城郭の全体像を最も良く残しています。彦根城は、琵琶湖に面した丘の周囲に濠を巡らした内郭と、さらにその周囲をとりかこむ外郭から構成されています。

内郭は丘の自然地形を巧みに活かして城郭の防御的部分と城主の居館を築き、外郭には位の高い武家の屋敷を配しました。外郭の周囲にも濠が巡り、外側には一般居住地と商業地からなる城下町があり、そのさらに外側にも濠が巡っていました。内・外郭には、天守・櫓・門などの城郭建築と居館の庭園である楽々園及び玄宮園が残り、二重の濠と石垣・城壁が良好に保存されています。

城下町は近代的な市街地に変わっていますが、街路の形態などに城下町特有の地割が残っています。現在、内・外郭とその外周部の一部について保存の措置が成されており、また、居鰭部分は一部が古図・古写真及び発掘調査の成果に基づいて復元され、博物館として活用するなど、基本構想に基づいた整備が図られています。

平泉の文化遺産

平安末期に奥州平泉で、藤原氏四代にわたる約100年の間に、藤原氏一族が都の文化を受容しつつ、独自に発展させた仏教寺院・浄土庭園などの華麗な黄金文化の遺産群であり、我が国の古代から中世への過渡期における地方文化の中で傑出した事例です。

富岡製糸場と絹産業遺産群

 伝統的な生糸生産から近代の殖産興業を通じて日本の文明開化の先駆けとなった絹産業の遺産群であり、国家主導による官営工場、フランス器械製糸技術の積極的導入、模範工場としての導入技術の積極的普及、輸出振興を目指した高規格品の生産等の点において特質が見られるなど、西欧の産業革命-近代化-という観点が「工場」という形で極東に伝播し、本格的かつ急速に発展した事例として重要です。
 群馬県内には繭の増産を意図した特徴的な養蚕農家群が出現し、桑畑とともに独特の農村景観を生み出しました。また、これに応じて養蚕農家に蚕の原卵を供給する蚕種生産農家、風穴等の保存施設、養蚕指導のための教育施設、在来的な座繰製糸農家の組合組織、繭や生糸の輸送に関する鉄道や倉庫の施設、絹織物業等も発展し、全体として絹産業に関連する一連の文化的景観を形成しました。これらの絹産業の発展は、江戸時代に既に盛んであった養蚕・製糸業を基礎として、西欧から近代技術がもたらされることにより開花したものです。その先進的な技術が国内各地に伝播した結果、日本は明治42年(1909)に世界一の生糸輸出国となり、さらに日本が輸出した安価で良質な生糸は、米国等の近代的な絹産業の発達と相まって絹の大衆化にも貢献しました。
 このように、本資産は、日本の近代化を表し、絹産業の発達の面において世界的な意義を持つことから、顕著な普遍的価値を持つ可能性は高いと考えられます。

富士山

 富士山は標高3,776mの極めて秀麗な山容を持つ円錐成層火山で、南面の裾野は駿河湾の海浜にまで及び、山体の海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。古くから噴火を繰り返したことから、霊山として多くの人々に畏敬され、日本を代表し象徴する「名山」として親しまれてきた。山を遥拝する山麓に社殿が建てられ、後に富士山本宮浅間大社や北口本宮冨士浅間神社が成立しました。平安時代から中世にかけては修験の道場として繁栄したが、近世には江戸とその近郊に富士講が組織され、多くの民衆が富士禅定を目的として大規模な登拝活動を展開しました。このような日本独特の山岳民衆信仰に基づく登山の様式は現在でも命脈を保っており、特に夏季を中心として訪れる多くの登山客とともに、富士登山の特徴をなしています。また、『一遍聖絵』をはじめ、葛飾北斎による『富嶽三十六景』など多くの絵画作品に描かれたほか、『万葉集』や『古今和歌集』などにも富士山を詠った多くの和歌が残されています。
 このように、富士山は一国の文化の基層を成す「名山」として世界的に著名であり、日本の最高峰を誇る秀麗な成層火山であるのみならず、信仰と芸術・文学の諸活動に関連する文化的景観として、顕著な普遍的価値を持つ可能性は高いと考えられます。

飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群

 崇峻5(592)に推古天皇が即位してから、和銅3年(710)に平城京へ遷都するまでの間、飛鳥の地に営まれた宮都の関連遺跡群及び周辺の文化的景観から成っています。100年以上にわたる累代の天皇・皇族の宮殿をはじめ、それに付属する諸施設(苑地など)、我が国最古の本格的都城やその内外に営まれた諸寺院、当時の有力者の墳墓などの遺跡群は今なお地下に良好に遺存しており、すでに調査された遺構・遺物は古代国家成立期における政治・社会・文化・宗教等の在り方を生々しく伝えています。また、これらの遺跡群が伝える当時の設計理念・立地計画・構築技術をはじめ、個々の遺跡に描かれた壁画等には、中国大陸及び朝鮮半島の影響が色濃く認められ、東アジア諸国との技術及び文化の交流を明瞭に示しています。また、大和三山は最古の和歌集である『万葉集』にも数多く歌われるなど、我が国の代表的な古典文学作品とも関わりが深く、後世の芸術活動にも大きな影響を与えています。これらの遺跡群は、周辺の自然的環境とも一体となって良好な歴史的風土を形成しており、文化的景観としても優秀であります。
 このように、本資産は日本の古代国家の形成過程を明瞭に示し、中国大陸及び朝鮮半島との緊密な交流の所産である一群の考古学的遺跡と歴史的風土から成り、両者が織りなす文化的景観としても極めて優秀であることから、顕著な普遍的価値を持つ可能性は高いと考えられます。

長崎の教会群とキリスト教関連遺産

 我が国におけるキリスト教は、天文18年(1549)のF.ザビエルによる布教開始以来、西日本で急速に広まりました。特にポルトガルとの貿易港として開かれた長崎にはイエズス会の本部が置かれ、日本における布教の重要拠点として教会堂をはじめとするキリスト教文化が栄えました。天正10年(1582)には長崎から天正遣欧少年使節が出発し、教皇への謁見を果たして我が国におけるキリスト教の定着を欧州に知らしめました。しかし、江戸幕府による禁教政策のためキリスト教は厳しく弾圧され、島原・天草の乱が起こるに至り、そのような弾圧の歴史を物語る痕跡は、キリスト教関連史跡として今日まで継承されています。禁教下においては、信徒は人里離れた浦々や島々に移り住み、洗礼やオラショを伝承し、明治期に入って禁教政策が解かれるまでその信仰を守り続けました。長い弾圧の歴史を経た後に建てられた教会群は、長崎県を中心とする地域に数多く残り、信仰を抑圧されてきた人々の解放と教会復帰の軌跡を現在に伝えています。また、教会群は外国人神父が伝えた西洋の建築技術と我が国の伝統的な建築技術の融合がもたらした質の高い造形意匠を良くとどめ、特色ある自然景観と相まって、貴重な文化的景観を形成しています。
 このように、本資産は我が国におけるキリスト教布教の歩みを示し、国内外の建築技術の融合の見本であるのみならず、独特の自然景観とも一体の優秀な文化的景観を形成し、顕著な普遍的価値を持つ可能性は高いと考えられます。

国立西洋美術館本館

 国立西洋美術館本館は、世界に点在するル・コルビュジエの代表作品のひとつで、日本に所在する唯一の建築物であります。
 1916年から1923年にかけて、日本の実業家・松方幸次郎(1865-1950)は数千もの西洋絵画、彫刻、装飾美術の収集に私財を投じました。松方の美術品コレクションのうち、パリに保管され、第二次世界大戦後にフランス政府に押収されたものについては、1953年、日仏両国関係者の協議により、その大半が日本国政府へ返還されることとなりました。返還に当たっては、西洋美術の変遷が学術的に日本の人々に伝わるような新美術館の建設が条件とされました。国立西洋美術館本館(以下、「本資産」とする。)は、この条件を満たすために日本国政府が上野恩賜公園内に建設したものであります。
 1955年11月、敷地を実査するために一度来日し、パリのアトリエで設計をまとめました。本資産の建設にあたっては、ル・コルビュジエの下で学んだ前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が設計補助ならびに現場監理を行っています。着工は1958年3月、竣工は1959年3月です。
 本資産は地上2階、地下1階建、鉄筋コンクリート造で、屋根は陸屋根であり、正方形の平面形態を有し、梁間方向に6間、桁行方向に6間の6,35メートル四方を単位とするグリッド上に全て柱(49カ所)が建てられています。建物中央には天井に三角錐状の採光窓(トップライト)を設けた吹き抜けホール(19世紀ホール)を配し、1階はその周囲をエントランスホールやサービスエリアが、2階は展示室が取り囲みます。また、19世紀ホール周囲に中3階をめぐらし、この上部に設けられた連続採光窓(ハイサイドライト)からの光を間接的に2階の展示室や19世紀ホール等に取り入れています。そのため、1階のピロティーを通って入口を入ると、来館者は自然光の差し込む 19世紀ホールへ、次にホール南東に設けた斜路へと誘導され、2階展示室へと導かれます。さらに、右回りに展示室を廻り、再び斜路へ到達するよう、2階窓及びハイサイドライトからの自然光が来館者を誘導します。
 このように、本資産は、陸屋根、正方形の平面形状、らせん状の回廊、展示品の増加に伴い渦が大きくなるように増床できる平面計画等、ル・コルビュジエによる「限りなく成長する美術館(Musée à croissance illimitée)」の構想をよく現した作品として評価されています。ピロティー、屋上庭園、斜路、自然光を利用した照明計画等、ル・コルビュジエに特徴的な設計要素を随所に見せる点でも貴重であり、20世紀を代表する世界的建築家のル・コルビュジエの代表作品として、顕著な普遍的価値を持つ可能性が高いと考えられます。

北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群

 縄文遺跡群は、農耕・牧畜を基盤として形成された地球上の他の地域における新石器時代の遺跡とは異なり、完新世の温暖湿潤な気候に基づく自然環境の中で約10,000年もの長期間にわたって日本列島に継続した狩猟・漁撈・採集を主たる生業とする、定住の生活実態を表す独特の考古学的遺跡群です。それは、地球上のある文化的地域において長期間にわたり継続した自然と人間との共生の在り方を示し、独特の文化的伝統を表す物証として顕著な普遍的価値を持つ可能性は高いと考えられます。
 日本列島の全域に及んだ縄文文化の中でも、広く落葉広葉樹林が展開した時期における東日本のそれは、食料資源の安定化とその利用技術の発展による定住生活域の拡大、集落の大型化、土偶や石棒などの祭祀具の急増などの傑出した内容を示しています。
 特に、北海道・北東北を中心とする地域では、円筒土器文化・十腰内式土器文化・亀ヶ岡式土器文化などの縄文時代を代表する独特の地域文化圏が繁栄し、特に亀ヶ岡式土器の文化は遠く近畿・中四国地域や九州地域に至るまで影響を及ぼしました。縄文遺跡群は、海岸部・河川流域・丘陵地帯などの多様な地形に位置する集落跡・貝塚・環状列石・低湿地遺跡などから成り、食料資源が豊富な落葉広葉樹林や海・河川といった自然環境への適応の在り方とそれに伴う定住の確立・展開の過程を顕著に示しています。

九州・山口の近代化産業遺産群

 九州・山口の近代化産業遺産群は、19世紀中頃、欧米列強のアジア進出への危機感の中で、江戸幕府や雄藩等が進めた自力による西洋技術の導入と、これを基礎として、明治維新後に九州・山口地域において、政府及び民間資本により進められた近代工業化の過程を示す一群の諸要素から成る産業遺産です。非西洋地域において、最初でかつ極めて短期間に飛躍的な進展を遂げた日本の近代工業化は世界史的にも特筆すべき事柄であり、本資産はその過程を明確に示す資産として顕著な普遍的価値を持つ可能性は高いと考えられます。
 九州・山口地域は、日本列島の最西端にあってアジア大陸に最も近いことから、古来日本の海外への窓口であり、諸外国の文化や技術を受容する最前線の役割を担ってきました。19世紀以降、欧米列強が東アジアへの進出を開始した時、九州・山口地域は他地域に先んじて植民地化への危機感と近代化に向けての高い動機をいち早く持ち、一連の地域として日本の近代化に先導的な役割を果たしました。
 本資産は、近代化の端緒から達成までの流れにおいて、相互に密接な関連を有する以下の4つの象徴的な要素から成ります。
 第1に「自力による近代化」です。九州・山口地域では幕末において、海防に備える鉄製大砲を鋳造するため、反射炉や洋式高炉の建設が開始されました。この日本近代化の端緒となる取組は、1冊のオランダ技術書を手本に、耐火煉瓦は磁器生産技術、基礎は石造技術、動力は水車等、九州に存在した高い水準の伝統技術との融合によって進められました。このような自力で取り組んだことに伴う近代化への強い志向や技術の蓄積は、その後の円滑な技術導入に大きく貢献しました。
 第2に「積極的な技術導入」です。開国や薩英戦争・下関事件の経験を契機に、イギリスやオランダから積極的な技術導入が行われ、長崎製鉄所や集成館等の機械工場群、蒸気機関を利用した洋式炭鉱、洋式船架等が建設され、各分野において、動力に蒸気機関を用いた近代機械工業が確立していきました。
 第3に「国内外の石炭需要への対応」です。幕末に端を発し、明治期に発展を遂げた洋式採炭技術を背景に石炭の増産体制が確立され、特に高島、三池、筑豊等の良質な石炭は、国内産業への供給はもちろんのこと、蒸気船の燃料としても大きな役割を担い、世界的にも、東アジア地域における海運網を支えました。
 第4に、「重工業化への転換」です。増産された豊富な石炭を背景に、ドイツの技術を導入して八幡の地に官営八幡製鉄所が建設され、一連の試行錯誤を経て、操業を軌道に乗せるに至りました。それは、従来軽工業中心に発展してきた日本の産業構造が重工業にシフトしていく上で、確たる基礎を築くものでした。

宗像・沖ノ島と関連遺産群

 4世紀から10世紀の東アジアにおいて、大陸との交渉に際して航海の安全祈願のための国家的祭祀が行われた沖ノ島と、祭祀に関わった古代有力氏族に関連する考古学的遺跡から成り、「島」に対する日本固有の自然崇拝思想の原初的な形態を残すのみならず、その祭祀行為が現在にも継続している資産として顕著な普遍的価値を持つ可能性は高いと考えられます。
 宗像・沖ノ島と関連遺産群は、豊かな自然環境に覆われた玄界灘に浮かぶ孤島であり、東アジア最大級の祭祀遺跡が存在する沖ノ島、沖ノ島に対する祭祀に関わった胸形氏の墓域である津屋崎古墳群、沖ノ島に対する信仰の在り方を今なお継承している宗像大社の境内及び社殿群により構成されます。
 沖ノ島では、4世紀後半から約600年間にわたって、祭祀が連綿と継続されました。これまでの発掘調査で23箇所の祭祀遺構が確認され、巨岩上の祭祀から始まり、岩陰祭祀、半岩陰・半露天祭祀、露天祭祀への祭祀の変遷が明らかとなりました。祭祀に際して供えられた品々は、新羅製の金製指輪や透かし彫りを施した馬具、遠く中東からもたらされたカットグラス碗の破片などを含め、約8万点にも及びます。
 この沖ノ島祭祀を司っていたのが、宗像地域を拠点として海人たちを束ねていた胸形氏で、その墓域と考えられているのが津屋崎古墳群です。その中には、馬具や冠が国宝に指定されている宮地嶽古墳なども含まれています。
 その後、沖津宮(沖ノ島)、中津宮(大島)、辺津宮(九州本土)が成立し、初期の神社形態が確立していきました。古代の沖ノ島祭祀は9世紀末の遣唐使の廃止を契機に終焉を迎えましたが、玄界灘航行の精神的な支柱として、沖ノ島に対する信仰は、近世以降においても途絶えることなく、今日においてもなお伝えられています。
 このように、沖ノ島は海を越えた大陸との対外交渉の成就や航海の安全を願って執り行われた独特の祭祀に端を発し、神が降臨する洋上の島に対する遙拝・信仰の在り方を現在にも良好に伝える資産であり、世界的に見ても例外的な事例であります。

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