名護屋城跡並陣跡 なごやじょうあとならびにじんあと

史跡 城跡

  • 佐賀県
  • 唐津市鎮西町・呼子町、東松浦郡玄海町
  • 指定年月日:19261104
    管理団体名:唐津市(昭3・2・9)
  • 史跡名勝天然記念物

文録慶長両度ノ役ニ我出征軍ノ本営タリシ處ニシテ天正十九年豊臣秀吉九州ノ諸侯ニ命ジテ築カシメタルモノナリ百数十箇所ノ陣阯其ノ周囲ニアリ 後廃墟ニ属シ陣阯亦破壊セラレタルモノ多シト雖モ濠渠石疊磴道等尚遺存シ其ノ雄大ナル規模見ルヘキモノアリ今回指定ノ陣阯ハ調査ノ終ハレルモノノ中其ノ主要ナルモノニ係ル
文祿慶長の役に、豊臣秀吉は名護屋に本營を置き、從軍の大名はそれぞれその周辺に陣屋を設けた、名護屋城は海に挺出した、ゆるやかな起伏に豊む半島の最高所に営まれ、本丸は最も高く壹岐を眼前に、対馬をその彼方に望み、視野極めて広く、選地のすぐれたことを思わせるに十分である。
本丸の北より北西にかけて(又は北面に)低く遊撃丸、2の丸、彈正丸、西の丸の諸郭を連ね配し、これにつづいて西面に帶郭(馬場)を沿はせる。本丸の南西隅の大手虎口を降れは3の丸に出で、その南東隅の虎口を出で、千人隅(枡形とも)の郭の前を通り、3の丸下を西行すれば大手口に達する。
大手は城の南西隅に位し、また3の丸の東に断崖を背に負うて低く山里丸がある。これらの諸郭と虎口は何れも堅固な堂々たる石垣を以て堅められ本営としてまことに壮観である。
いま各所に改変のあともあり、また石垣の崩壞したところも少なくないが、総じてよく旧状をとどめている。
安土城から慶長年間の城郭に至る間の築城の沿革をたどる上に貴重な資料であり、その歴史上の位置と相まって、史跡としての価値は極めて高い。
陣屋はそれぞれ高地に営まれ、その総数は■しいが、その人物、遺構等の点から10ケ所指定されている。この内にあって羽柴秀俊、堀秀治は遺構の遺存状況が特にすぐれている。羽柴秀俊の陣屋は丘陵上に営まれ、主要部は大小の二郭を連ね枡形がよく遺っている。背部につづいてまた二郭あったと認められ、虎口のあとなどが見られる。塁壁は石垣を以て固められている。堀秀治の陣屋も丘陵上に営まれている。要所を石垣を以て固め、正面、背面に虎口の構があり、内に郭がある。
前田利家の陣もまた見るべきものがある。これらの陣屋はこの種の遺例に乏しい現在、その好例として極めて貴重である。
S44-12-027名護屋城跡並陣跡.txt: 今回発見された陣跡は、名護屋湾の奥、呼子側の海岸台地上にあり、東西約70メートル・南北約50メートルにわたる方形の土塁がよく残存し、さらにその西側に2か所の小陣跡が付設され、門跡と思われる石垣も残っている。
 陣営図などによれば、この個所は黒田甲斐守長政の陣と思われ、すでに指定(大正15年11月4日史跡指定・昭和10年8月22日特別史跡指定)された10か所の陣跡のうち、大和中納言・堀久太郎陣跡とならぶ良好な遺構であり、呼子側としては、はじめての陣場跡である。よって、この陣跡をふくむ台地上の一画を追加指定する。

名護屋城跡並陣跡

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