絹本著色約翁徳倹像 けんぽんちゃくしょくやくおうとくけんぞう

絵画 / 鎌倉

  • 鎌倉 / 1319
  • 1幅
  • 重文指定年月日:19860606
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 永源寺
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 約翁徳倹は鎌倉の路傍の棄子であったという。ある名族に拾われて育てられ、十三歳の時に建長寺の蘭溪道隆の室に入って得度、十六歳で落飾した。文永年間(一二六四-一二七四)に入宋し、寂窓有照、石帆惟行、東叟仲穎、虚舟普度、蔵叟善珍等の諸師に歴参し、その器量の高さを称されている。帰国の後は師の蘭溪道隆に随侍していたが、葦航道然が建長寺の住持となるとその下で首座となり、長勝寺の開創に与ってその開山となり、以後、東勝寺、禅興寺、浄妙寺など鎌倉の諸寺の住職を勤め、徳治元年には建仁寺の十世となっている。延慶三年には建長寺十四世となったが、在任中に火災の厄に遭い、再建の策を講じてから責を負って退いた。しかし、その名声は消えず、後宇多上皇は一山一寧が寂して空席となった南禅寺の住持に懇請して師を著かしめた。文保二年(一三一八)に入院し、時に上皇はその場に臨御した。上皇の信任厚く、生前に仏燈大光国師の号を賜っている。元応二年(一三二〇)、五月十九日、臨終の床にあった時、大衆が見守っていると朝食に行くように勧め、午後、衣を整えて趺座し、遺偈を書して示寂したという。寿七十六歳。
 図は曲〓に坐し、手に払子を把って威儀を正した姿である。図上に自賛があり、文保三年、七十五歳の時の像と知られる。南禅寺に入院して一年後の最晩年の姿ということになる。容貌は肌色を厚手に彩色し、皺を墨線で描き老貌を確実に把えている。鎌倉時代の肖像画の写実力をよく示している。大衣は薄い茶地で金泥で唐花と卍形の模様を施し、袈作は褐色地で、田相部に総花入亀甲文、條葉に花文を施している。金襴というより印金を表していると見られるが、鎌倉時代末の禅僧の風俗、好尚を伝えている。
 賛は圓教大師の請によって著けている。禅宗では大師は比丘尼の尊号である。その人については知るところが無いが、このような立派な画像を画かせていることから、資財に恵まれた身分のある檀越であったと思われる。ちなみに永源寺は約翁徳倹の弟子である寂室元光を開山とする寺である。縁に依ってこの図が施入され、今日にいたったものであろう。
(賛)
 虚舟暫横断岸
 浮萍幾隨便風
 行年七十有五
 東西渾無定蹤
 而今又去綢中
 夫是喚作老不知
 羞無轉智之約翁

絹本著色約翁徳倹像

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