金峯山蔵王堂本尊像は内陣厨子内の三間にそれぞれ一躰ずつ安置され、中尊が七メートル、左右の像もそれぞれ五メートルを超える巨像で、『多聞院日記』『金峯山古今雑事記』等の記録から天正十五年(一五八七)頃宗印、了覚らによって製作されたものとされていた。
ファイバースコープ等を使用して中尊頭部内の調査を行い、墨書銘と納入品が発見された。また脇侍像にも墨書銘を確認することができた。
中尊頭部内墨書は造像銘で、天正十八年十一月十九日、南都大仏師宗貞、宗印らの仏師名が記される。蔵王堂の完成は天正二十年(一五九二)頃とされており、本三尊像も蔵王堂の建立と並行して造立されていたことが判る。
宗貞、宗印および彼等に続いて記される良紹は兄弟で宿院仏師源次を父とし、宗貞は下御門町、宗印は隣の北室町に仏所を構えたことが明らかにされている。本像とならび彼らが手がけた記念碑的事業である方広寺大仏の製作は『多聞院日記』に天正十六・十七年頃に関連記事があり、天正十七年頃に完成したとみられることより、その後に本像造立に取りかかり、およそ二箇年程度で造像がなされたことが判る。なお銘文には妙怡、貞怡、貞阿など宿院・下御門・北室仏所の作例に登場する人名がみえる。
納入品は願文・結縁交名で、うち二通の天正十九年の年紀から製作当初に納入されたものと知られる。在地の土豪や商工業者とみられる名がみえ、本像の造像事情の一端をうかがう資料である。