日根荘大木の農村景観 ひねのしようおおぎののうそんけいかん

文化的景観

  • 大阪府
  • 大阪府泉佐野市
  • 選定年月日:20131017
    管理団体名:
  • 重要文化的景観

大阪南部の泉州地方の平野部から、和泉山脈の燈(とう)明(みょう)ヶ岳(たけ)(標高558メートル)を中心とする犬鳴(いぬなき)山麓にかけての地域には、中世の五摂家のひとつである九条家の荘園に起源を持つ日根荘の農村地帯が広がる。その中でも、大木(おおぎ)は犬鳴(いぬなき)山(やま)に水源を持つ樫(かし)井川(いがわ)沿いの小さな盆地に位置し、紀州の粉河(こかわ)へと通ずる街道沿いに拓かれた水田及び村落が、荘園の名残を示す用水・地名などとともに、泉州地方の山間地における農耕・居住の良好な文化的景観を形成している。
 日根荘は、天福2年(1234)に立券されたのを起源とし、天文年間(1532~1555)まで維持された荘園である。井原(いはら)村(むら)・鶴原村(つるはらむら)・日根野(ひねの)村(むら)・入(いり)山田(やまだ)村(むら)の4箇村から成り、現在の泉佐野市のほぼ全域にあたる。文亀元年(1501)~永正元年(1504)、守護職による横領の危機に晒されていた家領を護るために、九条(くじょう)政基(まさもと)(1445~1516)は日根荘へと下向した。その時の記録である『政基(まさもと)公(こう)旅(たび)引付(ひきつけ)』によると、当時の荘園内の農民は米以外に柴・柿・楊梅・松茸などを生産していたことが知られる。また、近世以降の岸和田藩領としての日根荘大木の様子を描いた天保年間(1830~1844)の『大木村絵図』、犬鳴山及び大木の火走(ひばしり)神社の様子を描いた『和泉名所図会』によると、現在の土地利用形態は近世期からほとんど変化していないことがうかがえる。
 上大木・中大木・下大木の3箇所から成る大木は、日根荘の荘園を構成した耕地・村落のひとつで、史料・絵図に記す地名・寺社名などと現地に残された地名・寺社境内等との照合により、中世以来の開発の在り方を伝えつつ、近世における耕地・村落の基本構造が現在の土地利用形態にほぼ継承されている点で貴重である。
 大木の耕地開発は、中世以来、天水の得やすい谷筋の平坦面に始まり、近世以降には溜め池から引いた用水及び樫井川に設けた井堰・用水路等により、河岸段丘の上面の広い範囲へと拡大していった。現在の耕地への給水経路には、樫井川両岸の谷筋に設けられた溜め池を水源とするもののほか、樫井川から取水された用水を経由するものなど11の系統が存在し、各々の水系に沿ってまとまりのある耕地が盆地内に展開している。特に、上大木の傾斜面をはじめ、中大木・下大木の山裾及び谷間の比較的高所の地域には棚田が広がり、樫井川沿いに形成された河岸段丘上の平坦面には比較的広い面積の整形された水田が広がる。耕地のところどころには、近代以降、水稲の裏作として栽培されてきたタマネギの乾燥小屋が点在するほか、村落の背後の山裾には、長らく特産品として栽培されてきたヤマモモの老樹も多く残されており、泉州又は大木に独特の耕地・村落の景観を形成している。
 大木の村落は、河岸段丘の段丘崖沿いの道路に面して石積みによる屋敷構えが並び、各農家の主屋は棟の方向が道路と並行するように建てられている。四面に瓦葺きの錏(しころ)庇(びさし)を回した入(いり)母屋(もや)造(づく)りの茅葺き母屋も複数残されているほか、大正時代から昭和時代にかけて建てられた多くの木造瓦葺きの伝統的な農家建築には、地域で「キバ」又は「ツノ」と呼ぶ妻飾りが見られるのも特徴である。敷地内には、それぞれ飲用のための井戸、野菜の洗い場等の水利用のための「フチ」と呼ぶ水溜が設けられている。
 村落・耕地及びその周辺区域には、アカハライモリなどの希少種をはじめゲンジボタルなどの多様な生物が生息するほか、樫井川には、かつて食用とされたオイカワ・カワムツ・ヨシノボリなどの川魚及びモクズガニなどが棲息している。神社境内及び村落の周辺には、常緑広葉樹であるシイ・カシの二次林及びスギ・ヒノキの植林、モチツツジ・アカマツ群落が広がり、その合間を縫ってタケノコの収穫が行われてきた竹林が分布するなど、生活・営農活動を通じて人間が自然環境と共生し続けてきたことを示す植生が見られる。
 以上のように、日根荘大木の農村景観は、中世における摂関家の荘園に起源を持ち、和泉山脈における盆地の地形とも調和し、当時の土地利用の在り方を伝えつつ、近世から現代にかけて緩やかに進化を遂げた農村の文化的景観であり、我が国民の基盤的な生活又は生業を理解する上で欠くことのできないものであることから、重要文化的景観に選定して保護を図ろうとするものである。

日根荘大木の農村景観

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