但馬と播磨との境に位置する生野では,古くから鉱山開発が進められた。開坑は大同2年(807)と伝わるが,史料での初見は『銀山旧記(ぎんざんきゅうき)』であり,天文11年(1542)に但馬守護職の山名祐豊(やまなすけとよ)が石見銀山から採掘・製錬技法を導入したとされている。江戸時代には口銀谷(くちがなや)・奥銀谷(おくがなや)等に灰吹(はいふき)小屋が立ち並び,生野の町は隆盛した。明治になると近代技術が導入され,昭和48年(1973)の閉山まで,我が国有数の鉱山として機能した。閉山後もスズの精錬及びレアメタルの回収が現在まで行われており,特にスズの精錬量は我が国有数の規模を誇る。
生野市街地には,鉱業都市を示す要素が数多く分布している。かつて物資の輸送路として活躍したトロッコ道は,現在も市道として交通の軸線を形成している。また,製錬滓(せいれんさい)をブロック状に固めたカラミ石は,民家の土台や塀,水路など至る所で用いられている。かつて鉱山に関わる信仰として行われた山神祭は,現在はへいくろう祭等にその精神が引き継がれており,鉱山町における生活と密接に関わる習俗・伝統が,現在も継承されている。
このように,生野鉱山及び鉱山町の文化的景観は,鉱山開発及びそれに伴う都市発展によって形成された文化的景観であり,現役の鉱業都市として生産活動及び祭等の習俗を継続しつつ,トロッコ道跡やカラミ石の石積みなど鉱業都市に独特の土地利用の在り方を示している。