文化遺産オンライン

私市円山古墳

きさいちまるやまこふん

概要

私市円山古墳

きさいちまるやまこふん

古墳 / 近畿 / 京都府

京都府

綾部市私市町

指定年月日:19940323
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

京都府北部最大の河川である由良川は、中流域で[[中丹波]なかたんば]地域の中心となる福知山盆地を形成している。私市円山古墳はこの東西に長い盆地のほぼ中央の北辺、由良川に注ぐ犀川と相良川の流れにはさまれた小高い丘陵の南端にある。古墳時代の中期、五世紀中頃に築造された大規模な円墳で、径七〇メートル前後、高さ一〇メートルの円丘の東南に幅一八メートル、長さ一〇メートルの造り出しが付く。最頂部は標高が九四メートルあり麓の平地部との比高差は六〇メートルをはかる。麓からは古墳をあおぎ見ることになり、またかなりの遠隔地からも古墳を望むことができる。古墳からの眺望もすぐれたもので、綾部、福知山の両市街地をふくむ由良川中流域のほぼ全域を見わたすことができる。私市円山古墳は、このように、中丹波地域のなかでも卓越した立地条件を備えているといえる。
 私市円山古墳は昭和六十二年から六十三年にかけて行われた財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターによる発掘調査で、はじめてその様相が明らかになり、平成三年には綾部市教育委員会が古墳の全体規模を確認するための調査を実施した。墳丘は後世の削平を受けることもほとんどなく、三段に築成した墳丘の斜面には、由良川から運んだ河原石を葺石として敷き詰め、一段目と二段目の平坦部分に埴輪列がめぐる。大部分が円筒埴輪であるが、朝顔形埴輪も少数ふくまれる。造り出しは上面が方形で、その外寄りから家形、[[蓋]きぬがさ]形や短甲形の形象埴輪と土師器が出土している。
 墳頂部は径約一八メートルの平坦部分になり、そこに三つの埋葬施設を確認している。ほぼ中央に位置する埋葬施設は、長さ七・六メートル、幅二・六メートルの墓壙の底に、長さ四メートル、幅〇・五メートルに復元できる組合せ式木棺を置いていた。棺内は、遺体をおさめた中央の主室と両端の副室とに仕切り、主室には短甲、衝角付冑、鉄刀、矢柄の残る鉄鏃などの武器、武具類とともに、勾玉、管玉、小玉、竪櫛、小型鏡などがあった。副室には鍬先、鎌、斧、[[釶]やりがんな]などの農工具をおさめていた。
 北側の埋葬施設は、長さ五・六メートル、幅二・六メートルの墓壙内に長さ三・八メートル、幅〇・五メートルほどの組合せ式木棺を置いていた。中央の埋葬施設と比べると、木棺に副室がなく、農工具と鉄刀がみられないが、鹿角製装具の付く鉄剣と[[胡禄]ころく]がある。胡禄は鉄地金張りや金銅製の部品が残存し、その裏面には布および革の痕跡がみとめられた。鉄鏃や矢柄の位置からみると、この胡禄には長さ六〇センチメートルの矢を三八本おさめていたと推定できる。
 南側の埋葬施設は、ほかの二つとは異なり、長さ二・四メートル、幅一メートルのごく浅い土壙で、木棺の形跡はみとめられない。なかに鉄鏃と農工具を検出した。これら三つの埋葬施設は、中央、南、北の順でつくられたことが判明している。しかし、出土遺物の型式に著しい差異がみとめられず、比較的短期間のうちに続いて営まれたものと考えられる。
 中丹波地域では、古墳時代前期から中期にかけて、弥生時代にみられるような低平な方墳からはじまって、定型的な方墳へと推移し、中期には綾部市菖蒲塚古墳や聖塚古墳など比較的大型の方墳が首長墓として造営され、特徴的な古墳文化を形成している。そうした状況のなかで、私市円山古墳はこの地域に伝統的な方墳ではなく、円墳の、しかも大規模な形態をとることで、そのほかの首長墓と一線を画しており、この事実の背後に、近畿中枢部との政治的結びつきの強化のあったことが想定される。
 以上のように、私市円山古墳は規模が壮大であるばかりでなく、古墳時代における政治や社会の様相を明らかにする上で高い学術的価値を有している。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

私市円山古墳をもっと見る

国指定文化財等データベース(文化庁)をもっと見る

キーワード

墳丘 / 古墳 / /

関連作品

チェックした関連作品の検索