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長崎台場跡
 魚見岳台場跡
 四郎ヶ島台場跡
 女神台場跡

ながさきだいばあと
 うおみだけだいばあと
 しろうがしまだいばあと
 めがみだいばあと

概要

長崎台場跡
 魚見岳台場跡
 四郎ヶ島台場跡
 女神台場跡

ながさきだいばあと
 うおみだけだいばあと
 しろうがしまだいばあと
 めがみだいばあと

史跡 / 江戸 / 九州 / 長崎県

長崎県

幕末

長崎市戸町

指定年月日:19860131
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

S53-12-038[[長崎台場跡]ながさきだいばあと].txt: 江戸時代、長崎港の内外に設けられた番所・台場・備場等の海警施設は、鎖国の窓としての長崎警備のため設けられたもので、鎖国の成立と崩壊過程における象徴的な歴史の所産である。
 このうち、諸台場は、主として設置時期によって、(1)古台場(承応2年-1652-7個所)、(2)新台場(文化5年-1808-5個所)、(3)増台場(文化7年-1810-4個所)、(4)佐賀台場(嘉永6年-1852-3個所)の4種に大別される。
 昭和53年11月に指定した魚見岳台場跡は、増台場である。新台場・増台場が設置された事情は次の通りである。即ち、文化5年、オランダ船旗を掲げて長崎港に入ったイギリス鑑フェートン号は、オランダ商館員を人質として薪水を要求するかたわら、湾内の測量を行なったが、長崎奉行はじめ当番の佐賀藩兵はなす術を知らず、近隣諸藩の軍勢が長崎に到着したのは、フェートン号出港後であった。フェートン号の退出後直ちに新台場等が築かれ、翌年、外国船渡来時の取扱法を改めるとともに、翌文化7年には増台場が築造された。
 魚見岳台場は、魚見岳の西斜面に造られ、神崎鼻に造営された神崎台場と相対する形で、長崎港の入口を扼している。下より変形六角形の三ノ増台場、ほぼ長方形の二ノ増台場、L字形の一ノ増台場と続くが、三ノ増台場と二ノ増台場の間は100余メートル、二ノ増台場と一ノ増台場の間は30余メートル隔っている。三ノ増台場と二ノ増台場の北にほぼ接して、3つの区画が上下1列に続いている。下ノ段は道具小屋・常住小屋が設けられた個所で、中ノ段は用途未詳の方形の場である。中ノ段の上24メートルの所には上ノ段があり、御石蔵が造られていたが、御石蔵以外には建物は現存しない。御石蔵は、平面3.5×3.7メートルの平家建瓦葺であるが、遺存状況は良好である。各台場・各段を取り巻く石垣や雁木も堅固に造られており、これまた遺存状況はきわめて良い。
 長崎の台場の歴史的重要性を考えれば、本来、遺存する台場を一括して指定すべきであるが、開発計画に対処するため魚見岳台場跡のみを標記の名称で指定する。

平成26年 追加指定・名称変更
 長崎(ながさき)台場(だいば)跡(あと)は、江戸時代の鎖国体制下、海外との交易・情報の窓口であった長崎港を警備するために設けられた台場群である。鎖国政策を取った江戸幕府は、中国・オランダ船を除く外国船の長崎入港を排除するため、福岡・佐賀藩に隔年交替で長崎警備を命じ、これに伴い、江戸時代を通じて長崎港内外に番所・台場・備場等の多数の警備施設が設けられた。このうち台場は、正保4年(1647)のポルトガル船来航を契機に築造されたのに始まり、当初設置の「古台場(ふるだいば)」(承応2年〈1652〉、7個所)、イギリス軍艦フェートン号の長崎侵入事件を受けて造営した「新台場(しんだいば)」(文化5年〈1808〉、5個所)及び「増(まし)台場(だいば)」(文化7年〈1810〉、4個所)、幕末期に佐賀藩が造営した「佐賀(さが)台場(だいば)」(嘉永6年〈1853〉、3個所)に大別される。これらは、長崎の警備のため設けられたものであり、鎖国の成立と崩壊過程における象徴的な歴史の所産として我が国の歴史を理解する上で重要なものであることから、昭和61年、長崎港の入口に位置する魚見岳の西斜面に造られた増台場である魚見岳台場跡を史跡に指定して保護を図っている。
今回追加指定を行うのは、佐賀台場の一つ、四郎ヶ島台場跡である。
遺跡は、長崎港外の端部、神ノ島地区から西南約200mの海上に位置する、東西約220m、南北約120mの小島である。幕末に至り、長崎警備の強化を図るため、長崎港外(外目(そとめ))の防御の必要を認識した佐賀藩は、嘉永3年(1850)、幕府に申し出て、自領の伊王島(いおうじま)・神ノ島に自費による台場の造営を開始した。 四郎ヶ島と東隣の小島の2島を埋め立てにより一体化した後、神ノ島と四郎ヶ島の間(約220m)を回廊状に埋め立てて接続させた。四郎ヶ島の内部を掘り抜いて、周囲を石や土手による胸壁で固め、上下二段の郭を形成し、同6年に完成した。築造に際しては、西洋式築城技術を用い、円弧形や稜堡(りょうほ)形の胸壁を採用し、土塁を設置するとともに、150ポンド砲2門をはじめとする洋式大砲の導入を図った点が従来にない特色である。
 長崎市教育委員会では、平成21~22年度に台場跡内部の発掘調査、及び北辺部の海岸に面する外石垣の測量調査等を実施した。外石垣は、天端の総延長約96m、基底部の総延長約112m、高さは4~11mで、やや屏風折状に連続している。材質は砂岩である。裾部に崩落があるものの、全体として築造当時の状態をよく留めている。また、当時の砲台跡や弾薬庫を確認した。
このように、四郎ヶ島台場跡は、幕末、佐賀藩が長崎警備の強化の一環として、西洋式築城技術を導入して長崎港外に築造した、長崎台場の一つである。台場の郭構造、石垣等の台場遺構が良好に遺存しており、我が国幕末期の軍事を知る上で重要なことから、史跡に追加指定するとともに、名称を長崎(ながさき)台場(だいば)跡(あと) 魚(うお)見(み)岳(だけ)台場(だいば)跡(あと) 四郎ヶ(しろうが)島(しま)台場(だいば)跡(あと)と変更するものである。

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