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苗木城跡

なえぎじょうあと

概要

苗木城跡

なえぎじょうあと

城跡 / 中部 / 岐阜県

岐阜県

中津川市苗木

指定年月日:19810422
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

S54-6-038苗木城跡.txt: 遠山氏は、加藤景廉を祖とし、鎌倉初期より美濃国遠山庄を所領して岩村に住し、景廉の子景朝になって遠山姓を称したといい、戦国時代にはいって、岩村遠山を宗家とするいわゆる7遠山が東美濃地方に勢力を張り、岩村城を中心として、苗木・明知・阿木・櫛原・飯羽間
・馬籠等の城に拠った。遠山氏は、はじめ土岐氏の麾下にあったが、応仁の乱後、土岐氏の勢力が弱まると次第に自立するようになり、土岐氏没落後は斉藤氏に属し、斉藤氏滅亡後は織田信長に通じ、永禄年間、苗木城は遠山直廉の拠る所となった。苗木城は、その後、遠山友勝・友忠・友政と城主が続いたが、友政は、本能寺の変後、織田信孝側につき、早く豊臣秀吉と結んで大きく東美濃で勢力を伸ばした森長可に抗したが、天正11年、友政は苗木城を放棄し、徳川家康を頼った。慶長4年、苗木城は、石田三成のはからいで河尻直次の領する所となったが、直次は、慶長5年の関ヶ原の戦で西軍に参ずる気色をみせたため、家康は、苗木旧城主遠山友政に苗木城の奪還を命じた。友政は、同年7月、苗木城を奪回し、家康から旧領を安堵され、10500余石を所領することとなった。以後、遠山氏は明治維新に至るまで苗木を領有し続けた。
 苗木城は、木曽川を南の限りとし、標高432メートルの通称城山の頂上部に主要な曲輪を配している。大手口は木曽川右岸の山麓に設けられ、48曲を経て山上に達する。山頂の本丸は狭小で、自然岩を利用した天守台上に櫓が建てられていたほか、居間・千畳敷・台所等の建物が建てられていた。「の」の字形に本丸を帯状に巻く恰好で二ノ丸が造られ、西側の1段低い所に御殿が設けられた。二ノ丸大手(大門)の北にも、大手口・搦手口を扼するように、三ノ丸的な駈曲輪が造られており、大櫓等が建てられていた。この城山は、自然岩が多く、このため石垣は岩と岩をつなぐように築かれている個所が多いが、所々、ことに本丸南西部等に戦国時代のものと思われる石垣が残っている。本丸頂上部、二ノ丸御殿を形成する個所・各虎口等、概して外廻りの石垣は、江戸初期の城改修後のものであろう。
 苗木城は、小藩の城であるが、殆んど一氏のみ有した珍しい例であると同時に、よく戦国時代の面影をとどめている近世城郭として貴重である。

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キーワード

/ 本丸 / / 大手

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