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恭仁宮跡(山城国分寺跡)

くにきゅうせき(やましろこくぶんじあと)

概要

恭仁宮跡(山城国分寺跡)

くにきゅうせき(やましろこくぶんじあと)

社寺跡又は旧境内 / 飛鳥 / 奈良 / 平安 / 近畿 / 京都府

京都府

古代

木津川市

指定年月日:19570701
管理団体名:木津川市(昭33・8・22)

史跡名勝天然記念物

主要遺構は国分寺境内と寺有原野より成る金堂跡とその南東60間余のところにある塔跡とである。
金堂跡は東西約33間、南北約20間の土壇をなし、その北西隅に円形造出と地覆石を有する花崗岩の礎石があり、南西隅にも礎石かと思われるものがある。また他から移したという凝灰岩の礎石3個と花崗岩の臼状石製品1個が点在している。塔跡は方約8間の土壇上に、花崗岩の礎石がある。側柱東端線の南端2個を欠くのみで、何れも円形造出を有し、中心に出■を具え、側柱礎石には地覆石が造り出されている。
指定地域としては、この2箇所の遺構を中心として、東西凡そ150間、南北凡そ191間の地域にわたり、南端部には大門、東大門と字する地域があり、また恭仁小学校運動場の一隅に凝灰岩の円形造出と地覆石を有する礎石がある。
金堂跡は続日本紀天平18年9月戊寅の條に「恭仁宮大極殿施入国分寺」とあるものに当るべく、ここをもって大極殿の地そのもつに擬する説もある。さりながら遽に從い難く、いま現状に即し、山城国分寺跡として指定しようとするものであって、塔跡の礎石の如きは天平時代の遺構として典型的なものであるばかりでなく、最も優れたものの一ということができる。
 山城国分寺跡は、奈良時代の天平13年(741)聖武天皇の詔により全国に建立された寺院の一つであり、奈良県境に近い木津川右岸に位置する。大宰府での藤原広嗣の乱を契機に東国を巡幸した聖武天皇が、山背国相楽郡甕原の地に入った天平12年から、難波宮を皇都とする同16年までの5年間皇都として経営した恭仁宮の故地に当たる。平城宮から恭仁宮に遷った聖武天皇は、13年、五位以上の者の平城京居住を禁じ、恭仁京への移住を促し、造宮卿を任じて造営を推進するとともに、人民に京の宅地を班給した。京は鹿背山の東西に左右京があった。恭仁宮の正式名称は大養徳恭仁大宮という。聖武天皇は14年には近江に紫香楽宮を造営してしばしば行幸し、15年には恭仁宮の造営を停止、翌年難波宮に遷り、17年に平城に戻った。18年9月に恭仁宮の大極殿が国分寺に施入されたことが『続日本紀』にみえる。
 恭仁宮・京の位置については明治時代以降議論されることがあったものの、その具体的な位置、範囲等については不明なままであったため、昭和32年の時点では、金堂跡や塔跡の基壇・礎石等寺跡の遺構が良好に残存している現状に即して、東西約150間・南北約191間の寺域が山城国分寺跡として史跡に指定された。
 その後、恭仁宮跡の全体的保存を図るべく、昭和48年以降京都府教育委員会及び加茂町教育委員会が恭仁宮跡の範確認調査を継続して実施した結果、宮の規模は、東西約560m、南北約750mであることが判明した。四周に大垣が廻り、宮城門としては現在のところ東面南門を確認している。宮中央やや北側に大極殿院地区があり、大極殿基壇の規模は東西約60m、南北約30mを測る。基壇上には建物の北西隅と南西隅に原位置をとどめる花崗岩製礎石2基と、移動及び転用された凝灰岩製礎石6基が残存する。基壇化粧は現状では瓦積みであるが、恭仁宮大極殿段階での姿は不明である。基壇上には東西9間×南北4間の大極殿建物が復元可能であり、その規模から見て、『続日本紀』の記載どおり、平城宮第一次大極殿を移築したものと考えるのが妥当である。大極殿回廊についても大極殿同様平城宮から移築したと見られる。
 大極殿地区の南の朝堂院地区は、南及び東西の3方を掘立柱塀で区画し、東西幅は約125m。朝集殿院南門等も確認しているが、朝堂の建物は未確認である。大極殿の北方には、掘立柱塀で区画された2つの地区に分かれていた可能性があり、そのうち「内裏西地区」の規模は東西約97.9m、南北約127.4mである。「内裏東地区」では中心建物と思われる南北に2棟並ぶ庇付きの東西棟建物が見つかっている。
 恭仁宮跡は平城宮跡・紫香楽宮跡と並ぶ古代の都城の一つであり、天平期の聖武天皇を中心とする当該期の政治状況を理解する上で重要な遺跡であり、かつ宮跡の遺構等が良好に残っている。そこで、史跡山城国分寺跡に追加指定し、名称を恭仁宮跡(山城国分寺跡)に変更して、保護の万全を期そうとするものである。

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