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新宮城跡附水野家墓所

しんぐうじょうあとつけたりみずのけぼしょ

概要

新宮城跡附水野家墓所

しんぐうじょうあとつけたりみずのけぼしょ

城跡 / 近畿 / 和歌山県

和歌山県

新宮市新宮

指定年月日:20030827
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

新宮城跡は、丹鶴城跡とも呼ばれ、大峰山系に源を発し、太平洋に流れ込む、熊野川の河口沿い南岸の標高約60mの独立丘陵上に位置する。
 城跡は、丘陵東部に本丸が位置し、その西南端に天守台がある。本丸に立つと太平洋の沖まで見渡すことができ、沖見城とも呼ばれていた。本丸の西方には鐘の丸、その北に松ノ丸が配されている。松ノ丸には、西方につづらに降りていく大手道がつながっているが、北側にも大規模な船着場や炭小屋群のある水ノ手郭へ降りる石階段が取付いている。また、本丸の北には出丸があり、船着場や熊野川河口などを見渡せる。
  城跡一帯は、熊野速玉大社の東に位置し、平安時代後期には熊野速玉大社の神宮寺的な存在であった丹鶴山東仙寺が所在したとされる。
  戦国期には在地豪族の堀内氏の所領となるが、関ケ原の戦いの後、浅野幸長が、紀伊国を領し、新宮には、一族の浅野忠吉が入城した。忠吉は、新宮城の整備に着手したが、元和5年(1619)浅野氏が安芸国に移ると忠吉も移封され、紀伊国には徳川頼宣が入国し、新宮には頼宣の付家老として水野重仲が入った。重仲は、徳川家康の母方の従兄弟で、頼宣の後見役として3万5千石を領した。水野氏は、尾張・水戸の付家老と同様、待遇は大名に準じ、将軍に拝謁をすることができた。以後、水野氏は、幕末まで10代にわたり新宮領主として当地を支配した。
  重仲は、入部後ただちに城の改修工事を進め、二代重良の時の寛永10年(1633)一応の完成を見た。正保城絵図である「紀伊国新宮城之図」によると本丸を中心に、南西に鐘ノ丸、北西に松ノ丸、西山麓に二ノ丸が配されていたことがわかる。城の規模は、本丸地域が東西180間、南北115間、二ノ丸が東西32間、南北28間とされる。建物は、天守を中心に多数の櫓・城門が所在したことがわかる。しかし、廃藩置県後の明治8年には城内の全ての建物が撤去された。
  城跡は、現在本丸地域を中心に「丹鶴城公園」として整備が進められ、そのための発掘調査が行われてきたが、水ノ手郭の調査では大きな成果が上がっている。
  この地域からは、雛壇状に区画造成され、隙間なく建てられた19棟の礎石建物群と通路が確認された。建物は、長方形・台形・L字形など多様の平面形をもつものであった。この建物群は郭の地形を最大限利用して造られたものであり、床面からは砂利と炭粉が堆積したものが多いこと、建替の際の整地層から多数の炭が出たこと等から炭小屋群と推定された。これらは絵図・文献資料等からその存在が確認されないが、調査の結果、宝永4年(1707)の地震後の整備より、造られたものと考えられている。この建物群は、炭俵に換算すると1万俵あまりの収容力のある施設であり、新宮炭の専売を行っていた藩が、本来軍事的性格を有する場所であった水ノ手郭を江戸時代の安定期に経済的性格の施設に役立てたものと考えられている。
また、城跡の南約1kmに位置する水野家墓所は、新宮城主初代重仲から10代までとその親族の墓碑16基が建ち並び、良好に保存されており、新宮城の整備と藩運営に携わった大名家墓所として貴重である。
  このように、紀伊家の付家老で大名として扱われた水野氏の城跡としての新宮城跡は、発掘調査の結果、近世城郭の機能としては異質の経済的側面の強い遺構が確認されたことから、我が国の近世大名家の経済的基盤を考える上で重要な発見であり、良好に保存されている水野家墓所とともに史跡として指定し保護を図ろうとするものである。

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