銅造薬師如来坐像(鶴岡八幡宮伝来)
概要
鶴岡八幡宮の回廊東南隅にあった座不冷壇所【ざさまさずのだんしよ】に伝来し、明治初年の神仏分離に際して寿福寺に移された薬師如来像である。左手に薬壺をもつ像容は薬師如来に通例の姿であるが、腹前に近い位置で仰掌する左手の構えや、内衣を表し、左袖縁を装飾的に折り畳み、右袖には波状のうねりをつける処理に特色がある。
両足部を含み頭躰を一鋳とし、像内は中空で、銅厚は〇・五~〇・九センチと薄く、均一に鋳上げられている。両手首先は別鋳とする。現在、表面は後補の漆箔に覆われるが製作当初は鍍金仕上げであったとみられる。
頬の丸く張った面部の輪郭、厳しさのある表情、面部をうつむけ、上躰をゆったりと構えた体勢や著衣の制は、運慶一門により建暦二年(一二一二)頃に造像された興福寺北円堂弥勒仏坐像(国宝 昭二六・六・九)に通じるところがある。原型はおそらく慶派仏師によるものであろう。
『吾妻鏡』建暦元年(一二一一)十一月十六日条によれば北条政子発願の金銅三尺薬師三尊が同日供養され、鶴岡神宮寺に安置されたことが知られる。本像は近世にはこの政子発願像の中尊にあたるとされており、作風から本像の製作の時期もその頃と考えられる。所伝のとおり本像が政子発願像にあたる可能性は高い。