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相模国分尼寺跡

さがみこくぶんにじあと

概要

相模国分尼寺跡

さがみこくぶんにじあと

社寺跡又は旧境内 / 関東 / 神奈川県

神奈川県

海老名市国分北

指定年月日:19970403
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

 相模国分尼寺跡は、海老名市城の相模川左岸に延びる河岸段丘上に立地する。天平13年(741)の聖武天皇の詔により、全国に設置された国分寺・国分尼寺の一つで、相模国分寺跡の北方約500メートルに伽藍中軸線をほぼ揃えて配置されている。大正末年に中山毎吉が著した「相模国分寺志」には、当時中門跡は畑と化したが、明治末年頃までは瓦と石が塚状に堆積し、そこに2個の礎石が残っていたこと、金堂基壇上には埋没した16個の礎石が存在すること、講堂跡は明治末年に削平され、その際に礎石が一隅に移動されたことなどが記されている。それらの主要伽藍地には、いつの間にか民家が密集し、近年の再開発により破壊の危機に瀕することになった。このため遺跡の保存に向けて、海老名市教育委員会が平成元年度から確認調査を実施した結果、伽藍の大要が把握され、保存の資料を得ることができた。
 伽藍は南北中軸線上に中門・金堂・講堂が1列に並び、中門から発した回廊が講堂に取り付く配置をとる。金堂と講堂の間には、東西二鐘楼と経蔵が配されている。金堂跡は、東西24・5メートル、南北19・5メートル、高さ1メートルの土壇として残り、基壇上には大正末年に中山が報告した礎石16個のうち、15個が現在する。礎石は1・5メートル前後の大型の花崗岩自然石を利用しており、柱座などの造りだしは認められない。金堂建物は桁行5間(総長21・2メートル)、梁行4間(総長13・9メートル)4面庇付東西棟に復原され、正面5間のうち中央の柱間が特に広く、6・3メートルを測る。これは東大寺大仏殿を除き、現在確認されている国分寺、国分尼寺の遺構としては最大規模の中央間となり、金堂の構造上の特異さを示唆する。基壇裾には、縁石で区画された内部に小石を敷き詰めた雨落石敷が巡るが、基壇化粧の抜き取り溝によって大きく破壊を受けている。また金堂の背面中央には、講堂へ通じる石敷通路が敷設されている。
 金堂以外の基壇はいずれも削平を受け、現存しない。中門跡にはかつて土壇が存在した区画が遺存し、調査によって南側雨落溝や回廊とみられる柱穴の一部が確認されている。講堂・鐘楼・経蔵については、基壇の掘込地業の一部を確認したが、鐘楼・経蔵は礎石建物ではなく、桁行3間、梁行2間に復原される掘立柱建物の柱穴の一部が発見されている。また、鐘楼東方に近接して回廊とみられる柱穴が検出され、講堂の西方でも回廊の一部の痕跡を確認している。中門から発した回廊が金堂・鐘楼・経蔵を囲み、講堂跡に取り付く構造は、三河国分尼寺や信濃国分尼寺の伽藍配置に近く、尼寺の伽藍配置としては類例の少ないものである。
 金堂は火災に遭遇した痕跡をとどめ、基壇上には焼土が堆積する。この焼土中からは、9世紀後半と推定される灯明皿がまとまって出土し、焼失年代の一端を示唆する。また金堂焼失後、規模を縮小した掘立柱の堂宇が同位置に再建されたことも明らかになっている。「日本3代実録」元慶5年(881)10月3日条には、「相模国言、(中略)又依太政官貞観15年7月28日符、以漢河寺為国分尼寺、而同日(元慶2年9月29日)地震、堂舎頽壊、請仍以本尼寺為国分尼寺」とあって、貞観15年(873)に尼寺が漢河寺に移ったが、元慶2年(878)の地震によって崩壊し、元慶5年に至って再び故地に戻るという経緯を記している。漢河寺への移転は、発掘調査によって確認された尼寺の焼失を起因とした可能性が高く、また近接した時期の再建が認められるなど、文献記録が発掘調査の結果と符合する点で興味深い。
 国分尼寺は国分寺とならび、律令制下における仏教体制のあり方を象徴する施設として重要であり、かつ、本寺跡は内容も明らかになった点で学術的にも極めて貴重な価値を有している。よって、史跡に指定しその保存を図ろうとするものである。

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