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後庵ザクラ

ごあんざくら

概要

後庵ザクラ

ごあんざくら

植物 / 東北 / 山形県

山形県

 エドヒガン 一幹(樹高14.84m、目どおり5.06m、根まわり5.90m)
 白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。白鷹町役場より西北西約2.2km。最上川の西岸、鮎貝八幡宮(鮎貝城本丸跡)の北側に位置する。
 民家の庭先にあるが、民家のすぐ脇は、鮎貝城の空堀となっており、急激に落ち込んだ斜面となっている。主幹は、民家の地面よりも一段低い斜面より横向に生えている。
 主幹の一部は空洞化しているものの、太い幹は根元付近で急角度に曲がり、二本の枝から伸びる枝張りは立派で樹勢も旺盛である。
 白鷹町の支援を受けながら、所有者によって大切に保護管理されている。
 城主鮎貝氏は平安期、藤原北家出身の藤原安親が置賜郡下長井荘の荘官として下向し武士化した在地勢力と伝えられ、当初は置賜郡横越に居住して横越氏を称したとされている。通説では応永年間(1394-1428)初期、横越成宗の代に横越氏は鮎貝にもともとあった城館を改修して居住し、以後、鮎貝氏を称したとされている。
 戦国末期の城主鮎貝忠旨(宗信)は山形城主最上義光の姉を室に迎え伊達氏への対立姿勢を鮮明にしたため、天正15(1587)年伊達政宗に鮎貝城を攻撃され最上領に逃れたとされている。その後、鮎貝氏は忠旨の弟宗益が伊達氏を背景に家督を継ぎ、天正19(1591)年伊達政宗の岩出山移封に同道した。 慶長3(1598)年、上杉景勝が会津に入封すると、鮎貝城には中条三盛が城代として配され、元和8(1622)年「一国一城令」により鮎貝城が廃されて御役屋が設けられると、春日主膳続元が代官として入部した。その後、寛文5(1665)年本庄長政が代官として鮎貝に入部し、明治維新まで本庄氏が在城した。
 鮎貝城の北側に一軒の医者があり、その傍らにエドヒガンの大樹があった。医者は城の後側にあったため「後庵」と呼ばれ、後庵の側にある桜ということでその名が付いたといわれている。

西置賜郡白鷹町大字鮎貝字桜舘3326番

山形県指定
指定年月日:20131129

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キーワード

白鷹 / エドヒガン / 鮎貝 /

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