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源頼朝書状〈文治二年四月三十日/〉

みなもとのよりともしょじょう

概要

源頼朝書状〈文治二年四月三十日/〉

みなもとのよりともしょじょう

その他 / 鎌倉 / 関東 / 東京都

源頼朝

東京都

鎌倉/1186

1巻

東京都台東区上野公園13-9

重文指定年月日:19930610
国宝指定年月日:
登録年月日:

独立行政法人国立文化財機構

国宝・重要文化財(美術品)

 この頼朝書状は、文治二年(一一八六)の四月三十日付で、摂政九条兼実の家司である左大弁藤原兼光に充てたもので、現状は礼紙、本紙、裏紙の順に巻子装に成巻されている。本文は「天下之政道者、依群卿之議奏可被澄清之由、殊所令計言上候也」との書出で、前年十二月六日の頼朝の院奏による群卿の合議による政務を重ねて進言し、東国における武門の棟梁としての立場を改めて明らかにするとともに、「縦雖被下 勅宣 院宣候、為朝為世可為違乱端之事者、再三可令覆奏給候也」と述べて、後白河院の意志といえども、不当なる場合はこれを覆奏すべきなど、院の専制に対する自己の所信を披瀝している。書止は「乍恐上啓如件」で結び、「四月卅日」の日付に「文治二」の付年号があって、本文書の年紀を明らかにする。日下に頼朝の署名があるが、花押部分のみが自署で、本文の筆跡は東大寺宝庫文書中にみる九月八日付頼朝書状等と同一祐筆の手になるものとみられる。
 ところで、本文書礼紙追而書に「如此之次第自摂政家定令觸申給候歟」とみえる点は、この頼朝の申状が、去る三月、頼朝の画策によって近衛基通に替わって摂政となった兼実との綿密な連繋の上に、院側に申し入れられた事実を示すものとして注目されよう。『吾妻鏡』文治二年四月三十日条には「當時京中嗷々、更不相鎭、被献御消息於内府已下議奏公卿等、是抽兢戦之誠、可令興行善政給由也」として、この文書の全文が収められており、これが頼朝による後白河院政に対する関東側の戦略の一環として行われたことを明らかにしている。
 この議奏公卿の任命は、必ずしも十分な機能を発揮するには至らなかったが、本文書はいわゆる守護・地頭の設置と並ぶ鎌倉幕府草創期における頼朝の対廟堂政策を考える上に重要な史料である。

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