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刀筆天部奏楽方盆

とうひつてんぶそうがくほうぼん

概要

刀筆天部奏楽方盆

とうひつてんぶそうがくほうぼん

漆工

六角紫水  (1867(慶応3)年-1950(昭和25)年)

ロッカク・シスイ

昭和2年/1927年

木 漆 漆絵 彫刻

高 19.6×19.6

1枚

六角紫水《刀筆天部奏楽方盆》

作者は現在の広島県江田島市大柿町に生まれ、東京美術学校第1回生として小川松民、白山松哉らに漆工を学んだ。卒業後に同校助教授となるが、岡倉天心と共に辞して日本美術院の設立に参画した。また、天心と共に1904(明治37)年に農商務省海外実業練習生として渡米、1908(明治41)に渡欧し、西洋の塗料を研究すると共に海外事情を見聞した。白漆や色漆の研究開発、アルミニウム酸化皮膜による漆工への活用、中尊寺金色堂をはじめ、各地の文化財調査や修復、国宝指定にも携わり、『東洋漆工史』の刊行、松田権六など昭和漆芸界の指導者たちの育成など、その活動は精力的で幅広い。数ある逸話のなかでも明治時代に素木で建てられた厳島神社の社殿を元来の朱で塗りかえたことは有名。
この作品は1927(昭和2)年、帝展に新設された第4部(工芸)へ出品したもの。波文や唐草文による周縁部を持ち、鳳凰3羽をしなやかな描線と絶妙な配置で飛翔させ、中央部には鼓を抱えた技芸天が沈金で表現されている。作者は、大正末期に中国・漢代の朝鮮楽浪郡遺跡から出土した漆器の調査に携わった。それら楽浪漆器の研究成果として制作されたのが、彫刻刀による彫線と筆によるしなやかで繊細な描線が際立つこの作品である。当時の常識を逸脱した作品であったために代作疑惑が起こり、紫水は反論し、一大論争の末、2年後に東京美術学校学長正木直彦の仲裁により和解、決着したというエピソードを持つ作品である。

【作家略歴】
1867(慶應3)
広島県能美島大柿町(現江田島市)生まれ。本名は注多良。

1883(明治16)
広島師範学校初範科卒業

1889(明治22)
東京美術学校(現東京藝術大学)第1回生として入学

1893(明治26)
東京美術学校卒業、その年より同校助教授

1898(明治31)
同校教授辞職、日本美術院に参画

1904(明治37)
農商務省海外実業練習生として渡米、ボストン博物館東洋部などに勤務

1908(明治41)
渡欧、ロンドン、パリ、ドイツ各地を巡ってロシア、清国歴訪

1914(大正3)
御料車の塗装を委嘱される

1925(大正14)
朝鮮半島の楽浪郡史址調査に参加

1927(昭和2)
帝展に工芸部新設、紫水の出品作品に対し、漆芸正風会から撤去決議書が出され、紛糾、2年後に和解。以後審査員或は無鑑査として作品発表

1930(昭和5)
国会議事堂御便殿装飾

1936(昭和11)
シドニー国際美術展覧会出品

1941(昭和16)
帝国芸術院会員

1950(昭和25)
東京都で没。享年84歳

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キーワード

学校 / 紫水 / 研究 / 卒業

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