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棲霞園及び梅ヶ谷津偕楽園

せいかえんおよびうめがやつかいらくえん

概要

棲霞園及び梅ヶ谷津偕楽園

せいかえんおよびうめがやつかいらくえん

庭園 / 江戸 / 九州 / 長崎県

長崎県

江戸

長崎県平戸市

指定年月日:20131017
管理団体名:平戸市(平26・3・24)

史跡名勝天然記念物

 平戸藩第10代藩主の松浦熈(観中)(1791〜1867)は、平戸城の城下とその郊外に2つの別邸を構え、各々の立地環境・目的に応じて、異なる意匠・形態の庭園を造営した。
 そのうちのひとつである棲霞園は、熈が政務の合間に和歌を詠み、風景を観賞し、心を癒すことを目的として作庭された庭園で、平戸城の本丸が位置する亀岡山の西北傾斜面及びその山麓の平坦な芝生地から成る。天保4年(1833)に熈が園内に建立した花畑碑の碑文によると、文化7年(1810)に庭園の修築を開始し、文政12年(1829)に完成したことが知られる。
棲霞園の絵図には、作庭後の間もない頃の姿を描いた文政7年(1824)の『御花畑之図』、改修後の姿を描いた元治元年(1864)の『御花畑絵図』の2葉が残されている。そのうち前者には、カーネーション・時計草など当時の日本では珍しかった植物をはじめ、大規模な整形式の迷路花壇が描かれており、熈が西洋文化に興味を持ち、触れる機会が多かったことがうかがえる。現存する棲霞園の庭園・建造物の地割・位置は、改修後の元治元年(1864)に製作された『御花畑絵図』と詳しく照合することができ、空間構成に大きな変化はないことが知られる。
 かつてヤマザクラ・ヤマモミジが多数叢生し、今は深い常緑広葉樹林に覆われた背後の傾斜面の裾部には、澄鑑池と呼ぶ池泉があり、その水面の中央には、「醴湧」と刻字された石碑を伴う石組みの井戸に向かって沢飛石が延びる。澄鑑池の北側には平坦な芝生地が広がり、その東辺に花畑碑及び棲霞園十勝碑(安政6年)が立つ。芝生地の西側には言葉亭及び錦斎などの建造物が建ち、さらにその北側に下の池が存在する。下の池の西には、明治時代後期に建て替えられた居宅が建つ。また、澄鑑池の背後の傾斜面には、平戸城北虎口門又は馬場跡へと通ずる石段・門、井戸、稲荷社の基壇・参道、複数の石燈籠などが残されている。
 熈が造営した今ひとつの別邸庭園である偕楽園は、平戸島北部東岸の斜面地に位置する。平戸島と九州島との間の「平戸瀬戸」と呼ぶ海峡に面し、遙かに北九十九島を望むなど海景の眺望に優れた立地環境を持つ。
熈は平戸の商人であった近藤慶吉に偕楽園の整備を命じ、梅谷鸝友の名を与えて管理させた。偕楽園が完成したのは天保9年(1838)であったと伝えられ、現在も残る木造建造物の表玄関には、花山院家厚(1789〜1866)の揮毫に成る「偕楽園」の扁額が掲げられている。天保15年(1844)の『梅谷津御園地一圓分間図』をはじめ、当時の関連文献によると、熈は、建築材料等の自家調達を目指して北側の斜面全体に梶・犬槇・木斛・椨・櫨などの樹木を植え、園内に見本園を造成するなど、藩の財政改善に取り組んだことが知られる。苗圃・花壇、盆栽仕立ての梅など、樹木の商品化を目的とする試験場としての機能があったものと見られる。現在の偕楽園の背後を成す斜面地及び石積みで造成された園内の雛壇状の造成地などの地形は、当時の絵図に描くものと照合することができる。園内の一画に窯を設け、窯業興しを試みた時期もあり、装飾文様が施された陶器が今なお花壇の縁取りとして残されている。
 熈の著作である『亀岡随筆』によると、偕楽園は殖産興業の実験場としての機能を持つとともに、火災が多発した城下からの避難所又は側室及び娘の居宅としても使われた。園内の一画には、オランダ碇の装飾品及び藤棚などの景物も見られ、『梅谷津御園亭号並出所』、『平戸咄』などの史料から、茶の湯・詩歌・蹴鞠が行われていたことも知られる。
 以上のように、棲霞園及び偕楽園は平戸藩第10代藩主の松浦熈が旧平戸藩領内に造営した2つの別邸庭園であり、立地環境・目的に応じて各々異なる意匠・形態・機能を持つものとして、ほぼ同時期に一体的に整備されたものと考えられる。平戸地方の幕末期における政治的・社会的状況を反映し、独特の造形・地割をよく残していることから、芸術上の価値は高く、よって名勝に指定し保護しようとするものである。

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