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別紙遺書

べっしいしょ

概要

別紙遺書

べっしいしょ

宝永3年11月25日ヵ/1706年ヵ

1紙

佐賀市松原2丁目5-22

公益財団法人鍋島報效会

宝永3年(1706)、父の2代佐賀藩主鍋島光茂の七回忌法要を終えたその年の暮れ、12月2日に3代佐賀藩主鍋島綱茂は病没した。逝去時に遺された子女は、娘の伊勢峯(お峯)だけ。男子に恵まれなかったため、前年に12歳離れた弟の吉茂を養子に決めたが、吉茂も必ずしも子宝に恵まれていたとは言えず、この時点で吉茂には側室の子である左膳という男子がただ1人いるだけだった。
「綱茂公御年譜」には、綱茂病没直前のこととして、「弾正様(吉茂)への御遺書相渡さる、さてまた御親類・御家老中へ同一通、鍋島山城殿・鍋島十左衛門へ同一通これを下さる」(同年11月25日条)とあり、逝去のおよそ1週間前に跡継ぎの吉茂ほか、重臣に対しても遺書を遺したことがわかる。
本資料は、白石鍋島家に伝来した重臣宛ての遺書である。その中で綱茂は、吉茂の次代の藩主候補を具体的に指名している。
「(側室の子であるが、吉茂唯一の実子である)左膳を弾正(吉茂)の嫡子に定め、お峯と婚姻させることで鍋島家が連続していくことを望む。もしこのことに支障があれば、お峯は身の上相応の所へ縁組させて欲しい。お峯については以前より頼み置いている通り、2人で深く心を入れてくれるように頼む」。ところがその後、左膳は6歳で早世し、お峯は五代米沢藩主上杉吉憲との縁組が整うが、婚姻前に14歳で没した。

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/ 鍋島 / 佐賀 / 光茂

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