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年未詳四月二日付 前田利長書状(九兵へ・左内宛)

ねんみしょうしがつふつかづけ まえだとしながしょじょう くへえ さない あて

概要

年未詳四月二日付 前田利長書状(九兵へ・左内宛)

ねんみしょうしがつふつかづけ まえだとしながしょじょう くへえ さない あて

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

前田利長  (1562~1614)

まえだとしなが

富山県高岡市

江戸時代初期

紙本・巻子・墨書

縦29.5㎝×横43.9㎝

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-164

高岡市(高岡市立博物館保管)

 加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長(※1)が側近の脇田九兵衛(※2)・大橋左内(※3)へ出した書状である。「三ゑもん」、即ち上坂家(※4)の薬師・三右衛門に対し、小袖を下賜している。治療のお礼と思われる。そして、利長は薬を付けて腫物一旦和らいだと伝えさせている。
 利長は高岡入城(1609年)の翌年春(※5)に「腫物」(梅毒の症状か)を発症し、病床に伏した。病状は一進一退を繰り返したが、同19年(1614)5月20日に死去するまで本復はしなかった。池田仁子氏の研究(※6)によると、その間、治療にあたった医師・薬師は、幕府から派遣された盛方院(吉田浄慶)・慶祐法印(曽谷寿仙)、薬師「一くわん」(※7)、高岡利屋町・聖安寺、藩医の内山覚中(覚仲)・藤田道閑・坂井寿庵、そして、宇佐美孝氏(※8)によると「石半左」(山崎長郷紹介の薬師)も治療にあたったことがされている。しかし、この上坂家の薬師三右衛門の名は上がっていなかった。
 だが本史料を含む、三右衛門関連5通(巻子装)を含む、上坂家文書35点は木倉豊信氏により、既に紹介済である(※9)。その中で木倉氏は本史料(15号文書)を慶長15年と推測しているが、病に倒れてから亡くなる同19年までの可能性もあると考えられる。
 本史料は令和元年(2019)7月27日~10月14日の当館開催の特別展「前田利長書状展」の出品された文書である(展示№28)
 状態は本紙全体にオレ、シミがみられる。

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【釈文】

 しゆもつ(腫物)のくすり(薬)あけ申候、
 三ゑもんに、此小袖壱つとらせ申候、
 くすりをつけ候て、一たん
 しゆもつやわらき申候よし申へく候、
  四月二日(黒文円印「長盛」)
   九兵へ(脇田)
   左 内(大橋)

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【注】
※1 前田 利長 まえだ としなが 永禄5(1562)・1・12~慶長(1914)・5・20
 加賀藩第2代藩主。前田利家の嫡男として尾張国愛知郡荒子(現名古屋市中川区)に生まれる。初め利勝。織田信長の命により父利家と各地を転戦。1583年(天正11)加賀国石川郡松任4万石に封ぜられたが,佐々成政が豊臣秀吉に屈したことから,85年その旧領のうち砺波・射水・婦負3郡に封ぜられ,射水郡守山城を居城とする。またこの年羽柴姓を許され,従5位下肥前守に叙任される。97年(慶長2)新川郡富山城を修築して入城。98年前田氏の家督を相続,従3位権中納言に叙され金沢に移る。99年利家の死後,豊臣政権の五大老に列す。豊臣政権分裂に際して前田氏存続に努め,1600年の関ケ原合戦では徳川方につく。戦後徳川家康から加賀国能美・江沼2郡を与えられ,加越能3カ国のほぼ全域を領有する大大名となり,十村制度の創設,05年越中総検地など領国統治を進める。同年家督を嗣子利常(利家4男)に譲り,新川郡22万石を養老封として富山城に隠居。その後も藩政を総監し徳川氏・豊臣氏間の対立激化の中で動揺する家臣団の統制に意を尽くす。09年富山城焼失後一時魚津城に移住。同年射水郡関野(せきの)に新城を構築・移住し,高岡と改称する。10年腫物(はれもの)を患い,翌年さらに悪化するに及んで遺言書を認める。また家臣団を本藩に返して徳川氏への親近の姿勢を示す。14年病気悪化の中で京都隠棲を幕府に願って許されるが果たさず,高岡城で死去。享年53歳。法号瑞龍院聖山英賢大居士。参考:『加賀藩史料』編外備考,『寛政重修諸家譜』巻1131,高澤裕一「前田利長の進退」(高澤裕一編『北陸社会の歴史的展開』)。〈見瀬和雄〉
(『富山県大百科事典〔電子版〕』北日本新聞社、2010/20200326アクセス)


※2 脇田 九兵衛 わきだ(た?※)(きゅう?)へえ(べえ?)
 天正13(1585)・?・?~万治3(1660)・7・?
 諱は直賢(なおかた)。九兵衛は通称。利長の側近。朝鮮生まれ。朝鮮名・金如鉄。父は翰林学士・金時省。文禄元年(1592)の役に、7歳にして宇喜多秀家の軍に伴われて岡山に来る。その夫人・豪姫(利家4女)により翌年金沢に送られ、利家夫人まつに養育される。利長の近侍となり、脇田重俊に入婿する。100石を受け、更に130石が加増され、詰小将衆となる。慶長10年(1605)、利長の富山隠居に従う。同14年(1609)、利長の高岡入城に従った。讒言されて一時、謹慎した。次いで大坂両役に出陣して功を立て、200石が加増される。寛永年中(1624~44)に570石加増され、計千石となる。使番、先筒頭、御算用奉行を歴任。同20年(1643)、大小将頭となり、のち公事場奉行を兼ね、次いで町奉行となる。万治2年(1659)退老して如鉄と号した。養老料300石を賜わり、翌年7月没した。享年75。幼時より文を好み、殊に連歌をよくした。主に高岡城時代、大橋左内と連名宛で利長書状が33通ある(下記参照)。大小姓頭であった時に住んでいたのが、金沢の小将町といわれる。子々孫々、藩に仕えた。5代のちの直温の時、500石となる。
(※日置 謙『加能郷土辞彙』金沢文化協会、p922には「わきだ」、『石川県姓氏歴史人物大辞典』角川書店、1998、p488には「わきた」。)

※3 大橋 左内 おおはし さない 生没年未詳
 詳細不明。利長の側近。大小将組に属した。慶長10年(1605)、利長の富山隠居に従い200石を受ける。利長の高岡入城にも従った。大西泰正編「前田利長発給文書目録稿」(『前田利家・利長』戎光祥出版、2016)に以下のように脇田九兵衛との連名宛で利長書状が33点(本史料含む/他に2点も可能性あり)あり、共に利長の意を受けて活躍していたことがわかる。
 ①(大西リスト№704)(慶長17年)正月30日付、腫物のことにつき
 ②(№778)年未詳正月7日付、津幡より年頭祝儀(銭)につき
 ③(№785)年未詳正月9日付、宮腰より年頭祝儀(鮒等)につき
 ④(№790)年未詳正月11日付、津幡より年頭祝儀(鮒)につき
 ⑤(№800)年未詳正月13日付、宮腰より進物(鮒)につき
 ⑥(№841)年未詳正月26日付、年頭礼のため加賀敷地天神社の神主来訪につき
 ⑦(№847)年未詳正月付、大脇差の金具等につき
 ⑧(№852)年未詳2月4日付、津幡弘願寺から年頭祝儀につき
 ⑨(№887)年未詳2月27日付、飯野村三介から進物(苗米等)につき
 ⑩(№920)年未詳3月12日付、鷂つかうにつき
 ⑪(№932)年未詳3月20日付、経田村源十郎から進物につき
 ⑫(№935)年未詳3月23日付、関野神社の祭礼・「ほこくるま山」等につき
 ⑬(№954)年未詳4月2日付、腫物の薬を献じた三ゑもんに小袖下賜につき【本史料】
 ⑭(№972)年未詳4月8日付、川上二郎四郎から進物(扇)につき
 ⑮(№983)年未詳4月16日付、火元は「しろかねや」、「めうちん」は苦しからずにつき
 ⑯(№988)年未詳卯月19日付、進物(さざえ)につき
 ⑰(№991)年未詳4月23日付、関野神社の祭礼につき
 ⑱(№1024)年未詳5月9日付、医師建部佐渡から進物(鱸)等につき
 ⑲(№1034)年未詳5月14日付、医師建部佐渡から進物(杏子)につき
 ⑳(№1121)年未詳7月13日付、津幡より盆の進物(鯖等)につき
 ㉑(№1126)年未詳7月22日付、「あおいのかた」を染めさせる等につき
 ㉒(№1195)年未詳9月6日付、津幡等より進物(鮒等)につき
 ㉓(№1212)年未詳9月16日付、経田村源十郎から進物(鮭)につき
 ㉔(№1213)年未詳9月16日付、津幡等より進物(鯉)等につき
 ㉕(№1285)年未詳10月22日付、津幡甚丞来訪を乞うにつき
 ㉖(№1291)年未詳10月26日付、宮腰肝煎来訪・進物につき
 ㉗(№1322)年未詳11月19日付、津幡の甚丞所持の掛け物を借り受けるにつき
 ㉘(№1326)年未詳11月22日付、石川郡吉野村弥兵衛・佐良村九兵衛、見舞いにつき
 ㉙(№1329)年未詳11月24日付、懸け絵所望につき
 ㉚(№1330)年未詳11月24日付、津幡甚丞・絵の主に銀子等をとらせるにつき
 ㉛(№1338)年未詳11月29日付、隼の餌につき
 ㉜(№1393)年月未詳21日付、有賀左京・今枝民部から進物につき
 ㉝(補遺№59)年未詳正月14日付、岩瀬六郎左衛門から年頭祝儀につき(大西「前田利長論」『金沢城研究』第16号、2018.3)

※4 上坂家 こうさかけ
 「上坂家文書」を伝える上坂家は守山城の西麓の高岡市東海老坂に古くより住んだ有力農民、もしくは下級武士と思われる。のち十村分役の山廻役を長く務めた旧家である。「先祖由緒并一類附書上帳」写(役儀4代「御用留」当館蔵)によると、元禄3年(1690)五兵衛の時初めて山廻役に任命されたので、同家ではこの五兵衛を「役儀初代」としている。五兵衛は宝永3年(1706)11月に病死している。
(木倉豊信「上坂家文書(続)」『富山史壇』33号(1966.3)、役儀4代東海老坂村五兵衛「御用留」高岡市立博物館蔵)

※5 利長の腫物発症時期
 慶長15年(1610)3月、将軍徳川秀忠は利長に対し「腫物被相煩候由、如何候哉無心元候」、同4月には大御所徳川家康より「煩無心元候間、使者差遣候、無油断御養生専一候」(『加藩国初遺文』)と見舞いの書状が届いており、宇佐美氏は「これから利長の病は慶長十五年三月には周知のものとなっており、高岡に城を移した慶長十四年には発病していたとも考えられよう。」と推察している。
(宇佐美 孝「文献史料調査に関する考察」『高岡市 前田利長墓所調査報告』高岡市教育委員会、2008)

※6 池田仁子『近世金沢の医療と医家』岩田書院、2015

※7 薬師「一くわん」
 鈴木景二「前田利長書状二通」『富山史壇』189号(2019.7)

※8 宇佐美 孝「加賀藩史料から見た前田利長墓所の変遷」『高岡市 前田利長墓所調査報告』高岡市教育委員会、2008

※9 木倉豊信「上坂家文書目録」『越中史壇』28号(1964.3)、「上坂家文書(続)」『富山史壇』33号(1966.3)

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