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後藤分銅

ごとうふんどう

概要

後藤分銅

ごとうふんどう

民俗 / 富山県

後藤四郎兵衛家(1)

ごとうしろべえけ

富山県高岡市

文久元年3月18日以前/1861年3月18日以前

青銅・鋳造、彫金

写真1上段左から、
拾両:長さ5.8cm×幅4.2cm×厚さ2.8cm(重さ375.0g)
伍両:長さ4.4cm×幅3.2cm×厚さ2.1cm(重さ187.5g)
肆両:長さ4.0cm×幅2.8cm×厚さ1.9cm(重さ150.0g)
参両:長さ3.7cm×幅2.5cm×厚さ1.8cm(重さ112.5g)
弐両:長さ3.4cm×幅2.4cm×厚さ1.5cm(重さ75.0g)
壱両:長さ2.7cm×幅1.9cm×厚さ1.1cm(重さ37.5g)
五匁:長さ2.2cm×幅1.5cm×厚さ1.0cm(重さ18.75g)
四匁:長さ1.9cm×幅1.3cm×厚さ0.9cm(重さ15.0g)
三匁:長さ1.8cm×幅1.2cm×厚さ0.8cm(重さ11.25g)
二匁:長さ1.8cm×幅1.2cm×厚さ0.6cm(重さ7.5g)
一匁:長さ1.4cm×幅1.0cm×厚さ0.5cm(重さ3.75g)
五分:長さ1.3cm×幅0.7cm×厚さ0.3cm(重さ1.875g)
四分:長さ1.2cm×幅0.7cm×厚さ0.3cm(重さ1.5g)
三分:長さ1.1cm×幅0.6cm×厚さ0.2cm(重さ1.125g)
二分:長さ1.1cm×幅0.6cm×厚さ0.1cm(重さ0.75g)

15

富山県高岡市古城1-5

資料番号 2-07-42

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

後藤分銅15個である。分銅とは、天秤でものの重さを計るとき、基準とする錘のことであり、後藤分銅は中央部がくびれた繭形をしているのが特徴である(2)。
 大きなもの(写真左上)から「拾両」、「伍両」、「肆(四)両」、「参両」、「弐両」、「壱両」、「五匁」、「四匁」、「三匁」、「二匁」、「一匁」、「五分」、「四分」、「三分」、「二分」である(1両=10匁=100分=37.5g)。
 「拾両」から「壱両」の表面には、額面が彫金され、中央には後藤家の家紋「五三桐」(極印(3))の刻印がある。「拾両」から「壱両」の裏面には、中央に「後藤」と点刻されており、周りに家紋がいくつか刻印されている。「後藤」の上には、「極」と「令」の字が、その下には、花押が刻印されている。側面にも、後藤家の家紋がまんべんなく刻印されている。
 「五匁」から「一匁」の表面中央には、「令」の字が刻印されている。「五匁」の裏面には、中央に「後藤」と点刻されている。その上に「極」の字が、その下に花押が刻印されている。「四匁」から「一匁」の裏面には、中央に「後」と点刻されている。その上に「極」の字が、その下に花押が刻印されている。
 「五分」から「一分」の表面中央には、額面が彫金されている。裏面には、上部に「極」の字が、下部に花押が刻印されている。「五分」のみ裏面中央に、「後」と点刻されており、それ以外は点刻されていない。
 寛文5年(1665)に江戸幕府によって、後藤宗家(四郎兵衛家)の極印の無い分銅の製作・使用を禁じられ、以後、後藤家によって製造と販売・取り締まりが行われた(4)。後藤分銅は、1分から200匁≒20両までの17種類を基本の1セット(場合によっては、30両と50両を加えた19種類を基本の1セット)としている(5)。よって本資料は、20両と1分が(19種の場合は30両、50両も)欠損していることがわかる。
 付属品の共箱の蓋には、「極新分銅/百目下壱面」(目=匁なので、百目=10両。10両以下の分銅一揃いの意味カ)と墨書されている。側面には、「(寄贈者の高岡源平町・神初家の屋号「ヤママス」)持用」と墨書されている。箱底面には、「文久元酉三月十八日」と墨書されており、本資料を入手した年代とすると、製造年代の下限となる。
 資料状態は、細かい傷や黒ずみなどが目立つ。共箱にところどころ虫損がある。

(注)
1. HP「精選版 日本国語大辞典」
2.『絵引日本民具辞典』河出書房新社、2008年、p385
3. HP「日本大百科全書(ニッポニカ)」小学館
4.『広島市郷土資料館資料解説書 第18集 はかる道具-ものさし・枡・秤と尺貫法-』広島市教育委員会、2005年、p10
5.同上書、p42

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/ 重い / / 分銅

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