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国泰寺禅堂建築に付勧進状

こくたいじぜんどうけんちくにつきかんじんじょう

概要

国泰寺禅堂建築に付勧進状

こくたいじぜんどうけんちくにつきかんじんじょう

文書・書籍 / 明治 / 富山県

徳久恒範  (1843~1910)

とくひさつねのり

富山県高岡市

明治25年12月11日/1892年

紙・継紙・墨書

縦26.3㎝×横87.8㎝

1

富山県高岡市

1-01-61

高岡市(高岡市立博物館保管)

 本資料は、臨済宗国泰寺派本山の摩頂山国泰寺(富山県高岡市西田)(注1)の禅堂建築に際して寄付を呼び掛けた文書である。原題は「禅堂建築募縁序」。
 国泰寺が来年(明治26年)、光明天皇500年の法会を行うので全国から僧侶が来る。よって筆者の富山県第4代知事・徳久恒範(1843~1910)(注2)と親交のある国泰寺55世管長・雪門玄松(注3)が禅堂を建てたいと言っているので、ぜひ浄財を寄付してほしいとしている。
 荒廃していた国泰寺の復興については、明治11年の明治天皇行幸に供奉した山岡鉄舟(注4)がその合間に国泰寺を訪ね、当時の管長・越叟義格(注5)と知己となり、翌年、越叟が上京して鉄舟に再興を依頼し、鉄舟は快諾した。そして「寒山詩」のうち八首を選び、更に四首を適宜選んで揮毫したもの(いわゆる「千双屏風」)などを大量に贈って復興資金とした(注6)ことは知られている。
 しかし、徳久知事も支援していたという記事はあまり記録に残っておらず、本資料は貴重なものといえる。

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【釈文】
 禅堂建築募縁序
摩頂山国泰寺ハ妙意禅師ノ
開基ニ係リ、
後醍醐天皇ノ勅願所ニシテ北陸
第一之禅刹也、今ノ雪門禅師、
余ト旧アリ、久シク其縁故ヲ聞キ、
又其力ヲ恢復ニ致スヲ知ル、頃日執事
来ツテ云、恭ク来年
光明天皇五百年ノ法会ヲ行ナ
ハントス、天下ノ僧侶来リ会スル者亦
多ケン、顧フニ禅定ナカルヘカラス、因テ
平生相知ル処ノ有志ニ図リ、一宇
ヲ建、以テ衆僧伝法度生ノ便ヲ
為サント欲スト、余其志厚シテ而其
意ノ切ナルニ感ス、且夫禅定者、三
学六度ノ根本諸仏、無上ノ妙
道ニシテ、人ノ転迷開悟スル者皆
此道ニ由ラサルナク、無碍清浄ノ智
慧者悉此堂ヨリ得、此寺ニシテ而
此堂ナキ、実ニ缼点ト云ヘシ、余安ソ其
挙ヲ美トセサランヤ、希クハ四方有縁
ノ諸士多少ノ浄財ヲ義捨シ、以テ
此業ヲ助ケ無シテ仏陀ノ妙音ニ契
ヒ、退テ得脱ノ良縁ヲ結ハンコトヲ、乃茲ニ
一言ヲ書、以執事ノ需ニ応スト、云尓、
 明治廿五年臘月十一日
      徳久恒範
       (朱文方印「募卿」、白文方印「徳恒範印」)

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【注】
1.国泰寺 こくたいじ
 高岡市太田にある臨済宗寺院。臨済宗国泰寺派の本山。山号は摩頂山。開創は1328年(嘉暦3)。開山は慈雲妙意で後醍醐天皇から清泉禅師の号をうけ,また光明天皇から慧日聖光国師と諡号を贈られる。慈雲妙意は信濃(現長野県)で生まれ,越後五智院で得度。関東壇林で修行し,北陸の曹洞禅に参ずる途中二上山に留まり,1296年(永仁4)に小竹弘源寺の地に草庵を構えたという。ここを訪れた孤峰覚明の教えにより,紀伊国(現和歌山県)由良興国寺の無本覚心を訪れて印記をうけ,その死後は孤峰の弟子となり,99年(正安1)に二上山に帰り東松寺を開く。1302年(乾元1)には国泰寺と改称し,伽藍を整備。寺伝では27年に後醍醐天皇の勅を奉じて寺を建立し,28年に護国摩頂巨山国泰万年禅寺の勅額と勅願所の綸旨を賜ったという。同寺蔵「清泉妙意禅師行録」には,同寺が39年(暦応2)に足利尊氏によって越中安国寺に充てられたともいわれるが疑問である。同じく法灯派の興化寺が足利政権と結び付くことで五山建仁寺系の出世寺となったのに対し,国泰寺は南朝系とのかかわりが深い孤峰の影響下にあったことや,修行を重視する林下的性格をもっていたため,室町期には世に現れることが少なかったようである。
 19世大梅妙奇のころ,神通川上流高原川沿いの現岐阜県上宝村一帯に国泰寺の教化が進められた。本郷本覚寺・長倉桂峰寺・赤桶寺・田頃家永昌寺・一重ケ根禅通寺・福地新福寺などである。永昌寺の場合,1435年(永享7)以前に大梅の弟子鳳宿麟芳が同寺の中興にあたる。南北朝~室町前期には山間土豪層への教化活動は見られるものの,基盤の不安定さをのぞかせていた。戦国期以後には再興神保氏と歩調を合わせるように隆盛に向かい,1546年(天文15)には27世雪庭祝陽が後奈良天皇から綸旨(りんじ)をうけ,紫衣を勅許される。天正年間(1573~92)には二上山山上から現在地に移り,加賀藩主前田氏の帰依が篤かった。だが飛騨の末寺群は金森氏の菩提所である高山の妙心寺派宗猷寺末に組み込まれ,国泰寺自体も1633年(寛永10)「諸宗末寺帳」段階で妙心寺末となる。この後,法灯派勅願寺院として越中および加賀の臨済宗寺院の多くを門末に加えた。1708年(宝永5)には5代将軍綱吉から法灯派総本山に認められる。
 38世別伝は正徳年間(1711~16),加越能3国に寄進を募り,21年(享保6)法堂・祖堂・庫裡・僧坊などを新築。1876年(明治9)に臨済宗諸派が分立した際には相国寺派に属した。78年秋,明治天皇巡幸に従った山岡鉄舟は国泰寺を訪ね,54世越叟義格と協力して,明治維新以来困窮していた同寺の財政を助け,天皇殿の再建と三門の改築に努めた。越叟は明治政府教部省大教院長荻野独園(相国寺126世)の協力者でもあった。国泰寺においてはじめて白隠系の宗風を揚げた。55世雪門玄松は近代日本の代表的思想家である西田幾太(「多」の誤記)郎や鈴木大拙に多大の影響を与えた禅僧として著名(水上勉著『破鞋』)。1905年(明治38)には相国寺派から分離独立して臨済宗国泰寺派を称した。41年(昭和16)には一時他派と合同したが,第2次世界大戦後には元に戻り,52年には国泰寺派として宗教法人の認証を受けて独立。現在末寺35カ寺を擁する。開山忌は6月2,3日。法灯派本山でもあるため妙音会と称して虚無僧が数十人集まり,尺八を吹奏する。⇔稲葉心田,安国寺利生塔〈久保尚文〉(「富山大百科事典 電子版」/平成27年11月28日アクセス)

2.徳久恒範 とくひさ・つねのり
 1844・2・16~1910(天保14・12・28~明治43)4代富山県知事(1892・8・20~96・4・11)。肥前国(現佐賀県)に生まれる。明治維新のとき江藤新平らと活躍,新政府の陸軍に出仕(しゅっし)。陸軍少佐に任ぜられて東京鎮台第2分営大弐(分遣隊長)となり,甲州農民騒動の鎮圧(1872)を行ったりした。〈佐賀の乱〉に際して江藤にその無謀を忠告したというが,抑えられなかった。江藤の下に実弟恒敏(佐賀から鹿児島に渡った江藤に随行,のち西南戦争で戦死)が参加したため辞任し帰郷していたが,1878年(明治11)熊本県警部として官界に復帰,同県警部長から石川・栃木・兵庫各県書記官を経て本県知事に就任。〈勧業知事〉といわれ,農業や高岡銅器の発展に努めた。日清戦争の最中だった94年,県議会の反対を押し切って工芸学校(現高岡工芸高校)・簡易農学校(現福野高校)を創設する。決して治水・治山に不熱心ではなかったが,県議会からは勧業・教育だけに傾き,しかも議会を軽視しているなどとして,84年12月通常県会で不信任を決議された。徳久は内務省に指揮を仰ぎ,解散でこれに報いる。就任当時から県議会とは不協和音が漂っていたらしい。本県から香川県知事へ転じ,さらに熊本県知事を務めた。享年68歳。〈広瀬久雄〉
(「富山大百科事典 電子版」/令和元年9月4日アクセス)

3.雪門玄松 せつもんげんしょう
  1850-1915 明治・大正時代の僧。
 和歌山市の豪商の跡取りだったが、時代の流れと当主の遊興が過ぎて家業が傾き、後を次男に任せ出家。その寺も台風で壊れ、後に京都相国寺・荻野独園(大教院長、禅宗初代管長)に師事し印可を得る。その後、実家の支援で中国に3年遊学。帰国後の明治16年、国泰寺55世管長に就任。山岡鉄舟の軸を担いで勧募に歩き、荒廃した伽藍の修復に奔走した。同21年の鉄舟没時には本葬儀の導師として儀式を主宰。また若き日の西田幾多郎や鈴木大拙が雪門に参禅した。明治26年、禅堂再建を落成させると、突如国泰寺を退山し、草庵に引き籠もり在家禅を唱導。その後実家の鉱山経営のために還俗するも、慣れない事業経営に失敗。再度禅僧に戻り、若狭の曹洞宗の寺を寓居として、村おこしを手伝うなど乞食僧として活動するも、腹膜炎を患い66歳で没した。その生涯は小説、水上勉『破鞋(はあい) -雪門玄松の生涯』(岩波書店、1986年)に克明に描かれた。(注(3)高田文献、備後國分寺ブログ「住職のひとりごと」内、2007年1月6日記事)

4.山岡鉄舟 やまおか てっしゅう
  1836-1888 幕末-明治時代の剣術家、官僚。
 天保7年6月10日、幕臣小野高福の4男に生まれる。鎗術家山岡静山の妹と結婚、静山の跡をつぐ。剣を千葉周作にまなび、幕府講武所でおしえる。戊辰戦争では勝海舟の使者として西郷隆盛にあい、江戸開城のための勝‐西郷会談の道をひらく。維新後は静岡藩権大参事、茨城県参事、明治天皇の侍従などを歴任。明治13年一刀正伝無刀流をたてる。海舟、高橋泥舟とともに幕末三舟と称された。明治21年7月19日死去。53歳。江戸出身。本姓は小野。名は高歩(たかゆき)。字は曠野、猛虎。通称は鉄太郎。別号に一楽斎。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus/平成27年11月28日アクセス)

5.越叟義格 えっそうぎかく
  1837-1884 幕末-明治時代の僧。
 天保8年5月3日生まれ。臨済宗。文久3年京都相国寺の越渓守謙に師事し、その法をつぐ。明治7年国泰寺(富山県高岡市)の住持となり、山岡鉄舟の援助で同寺を法灯派の本山とする。東京谷中に全生庵をひらいた。明治17年6月18日死去。48歳。筑前(福岡県)出身。俗姓は松尾。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus/平成27年11月28日アクセス)

6.仁ヶ竹亮介「山岡鉄舟筆《国泰寺奉納千双屏風》」2015年、高岡市立博物館
HP「学芸ノート/第13回」
 

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