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『自然登水車』

じねんとすいしゃ

概要

『自然登水車』

じねんとすいしゃ

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

筏井 満好  (?~天保6(1835)・10・24)

いかだい みつよし

富山県高岡市

文化5年1月中旬/1808年

和紙・袋綴(四つ目綴じ)・墨書

縦23.7㎝×横17.0㎝

1(16丁/表紙・裏表紙含まず)

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-170-

 『自然登水車(じねんとすいしゃ)※1』は現高岡市上伏間江の旧家出身の和算家で、石黒信由の「測量事業を支えた最も信頼できる腹心の門人」(※2)筏井四郎右衛門満好(※3)の著書(手書きの稿本)である。
 本資料は旧蔵者で医史学研究者・正橋剛二氏(※4)が、平成元年(1989)に初めて紹介(※5)し、さらに同3年(1991)に『筏井四郎右衛門と自然登水車-わが国江戸時代文化年間の永久機関-』(全文の復刻版も収録)を出版し、世に流布した。
 正橋前掲書の本資料序文の現代語訳によると、「私(筏井満好/引用者注)がここに紹介する水車の、最初のもの(第一型揚水車)は、ほぼこれにならったものに違いないが、水勢によることが少なく、意のままに高い所へ汲みあげることができるのである。さらに今ひとつ、後半に示す水車(第二型揚水車=自然登水車/同)は、これとは大いに異り、水勢の有無にかかわらず、池、沼、沢辺など、低い所に溜った水を数十丈(1丈≒3.03m/同)の高い所へ自然にのぼらせることのできるものである。これはかつて世に知られていない方法である。」(p50)とある。しかし、正橋氏は同書で「第一型揚水車については、かなり困難であろうが、条件さえ整えば作動するであろう。第二型については、いかにしても実現は不可能ないわゆる永久機関であろうと判定した。」と評価している。
 だが続けて「十七世紀の英国にニュートンが生れ、この頃から古典物理学の世界では飛躍的な前進が始まった。しかし、右のような永久機関が実現不可能として確立されるまでには、ニュートンの死後もなお、百年以上の年月を要した。満好がこの稿本を著した一八〇八年頃は、欧州といえどまだ、数多くの頭脳が、思い思いのタイプの永久機関の開発を競いあっていた時代なのである。満好が右のようなディレンマを持つ機械の世界に迷い込み、結果的には不首尾であったとしても、筆者はやはり満好の業績として十分に評価したいと思う。少しオーバーな表現であるかも知れないが、十九世紀初頭の永久機関開発レースの舞台に登場するメンバーの一員として、十分に資格を有した人と認めたいのである。」(p83)と高く評価している。また、正橋氏は「江戸時代の科学史あるいは技術発達史の一頁」、「算学が(中略)実学化していった過程での一軌跡として意義がある」(p4)ともしている。
 さらに本資料は、2003年の国立科学博物館特別展「江戸大博覧会-モノづくり日本」に出品された(※6)。またトヨタ産業技術記念館は2017年の展示内で「先人たちの夢「永久機関」」として、各種の永久機関を10件紹介しているが、そのなかで唯一日本から満好の「自然登水車」を取り上げている(※7)
 未刊行の本資料は、『国書総目録』、及び「日本古典籍総合目録データベース」にも未掲載であり、極めて貴重な資料といえる。
 状態はシミが多少ある程度で、良好といえる。

【注】
※1.【『自然登水車』の読み方】
 本資料には多くルビがふってあるが、肝心のこのタイトルにはふられていない(固有名詞にはほとんどルビはふられていない)。
 2003年に国立科学博物館特別展「江戸大博覧会」に出品されたが、その図録(p68)には「しぜんとすいしゃ」とルビがふってある。しかし、その次頁の「自然水」(久米栄左衛門、文化年間)には「じねんすい」とルビがふってある。
 『精選版 日本国語大辞典』「自然(じねん)」には「(1)古代、漢籍ではシゼン、仏典ではジネンと発音されていたものと思われるが、中世においては、「日葡辞書」の記述から、シゼンは「もしも」、ジネンは「ひとりでに」の意味というように、発音の違いが意味上の違いを反映すると理解されていたことがうかがわれる。(中略)(2)近代に入って、nature の訳語として用いられた(後略)」
 したがって、文化5年(1808)という年代をもつこの資料は、「ひとりでに」動く揚水車の話であるので、「じねん」と発音すべきであると考える。
(国立科学博物館特別展図録『江戸大博覧会-モノづくり日本』2003年
/『精選版 日本国語大辞典』2020.7.29アクセス)


※2.『越中の偉人 石黒信由 -改訂版-』(新湊市博物館、2001)p30

※3.【筏井 四郎右衛門 満好】いかだい しろうえもん みつよし
  生年:?
  没年:天保6(1835)・10・24
 江戸後期の算学家。射水郡西広上村(現高岡市上伏間江)の肝煎筏井家24代の8男に生まれる。幼名清五郎。兄25代を継ぎ,26代四郎右衛門満好を名乗る。石黒信由に学び,信由とともに加賀藩縄張役。広く越中・能登・加賀の測量に従い,恩賞を受ける。弟子も多く,金沢卯辰山観音堂はじめ各地の神社に木の板に和算の難題を書いた算額を奉納。低いところの水を自然に高いところへ上らせる揚水車の研究をし,1808年(文化5)『自然登水車』を著す。結局は実現不可能な〈永久機関〉に終わるが,和算の実学化を進めた点が評価される。〈正橋剛二〉。
(HP「富山大百科事典[電子版]北日本新聞社、2010/200725アクセス)
 また、満好には和算の弟子も多く、師信由の著『算学鉤致』(1819刊)に11名の名が列記されている。満好は「若いころから信由とともに各地の測量に従事し、さらに文政二年(一八一九)からの三州道程測量では信由の測量・絵図作成事業を手伝った。信由が没する前年の天保六年(一八三五)に亡くなったが、信由の測量事業を支えた最も信頼できる腹心の門人であったといえる。」
(『越中の偉人 石黒信由 -改訂版-』新湊市博物館、2001)
 満好の生年について、正橋氏は「長兄との関係から生年の上限を、肝煎役就任の関係から生年の下限を推定すると、満好はおそらく、宝暦七年(1757/引用者注)から明和四年(1767/同)の十年間に生れた人であろう」と推定している。
(正橋剛二『筏井四郎右衛門と自然登水車-わが国江戸時代文化年間の永久機関-』(私家版、1991年)p62

※4.【正橋 剛二】まさはし こうじ
  生年:昭和5年(1930)
  没年:平成27年(2015)10月3日
 富山県生れ。昭和34年(1959)、金沢大学大学院博士課程(精神医学専攻)卒業。同41年(1966)、富山市高木で精神病院を開業。医学博士・医療法人白雲会理事長・呉羽神経サナトリウム院長・日本医史学会評議員・金沢大学医学部十全山岳会前会長・日本山岳会会員。医業の傍ら医史学を研究(富山大教授・高瀬重雄氏に師事)。主な論文は、「越中高岡佐渡三良の著書「和蘭薬性歌」について」(松田健史と共著/『北陸医史』6巻1号、1985年)、「筏井四郎右衛門満好と「自然登水車」」(『富山史壇』第100・101合併号、越中史壇会、1989.12)、「江戸時代の症例研究会-高岡神農講の記録から-」(『医界風土記 中部篇』日本医師会、1994年』)、「越中高岡蘭方医の研究」(『地域蘭学の総合的研究』国立歴史民俗博物館報告書116集、2004年)など。編著書は、『筏井四郎右衛門と自然登水車-わが国江戸時代文化年間の永久機関-』(私家版、1991年)、『立山遊記 立嶽登臨図記』(桂書房、1995年)、『檉園小石先生叢話―復刻と解説』(思文閣出版、2006年)、『山本渓山「入越・日記」能登・越中・立山に薬草を求めて』(桂書房、2017年/※太田久夫「正橋剛二先生著作目録」収録)など多数がある。
 ちなみに、本資料を含む正橋氏の収集した医史学関係資料・図書類は、正橋氏の死後に娘の正橋立子氏により当館に寄贈された。
(同上書など)

※5.正橋剛二「筏井四郎右衛門満好と「自然登水車」」(『富山史壇』第100・101合併号、越中史壇会、1989.12)

※6.正橋氏は、国立科学博物館特別展図録『江戸大博覧会-モノづくり日本』(2003年、p68)に出品した本資料の解説を自ら執筆し、紹介につとめている。以下にその解説を記す。「自然登水車(しぜんとすいしゃ) 文化5(1808)年、筏井四郎右衛門満好/満好は、宝暦頃(1760年前後)越中国射水郡西広上村(富山県高岡市上伏間江村)に生まれ、天保6(1835)年に没したとされる。筏井家は代々、村役人あるいは郡方役人を務める家柄で、和算や天文を同郷の石黒信由に学んだ。本書は2種類の揚水車製作について詳細な計算と設計法が記してある。一つはキャタピラ状の連鎖水筒を持った揚水車。もう一つが自然登水車と称するポンプを利用した揚水車で、水の流れのないところでも揚水することのできる、いわゆる永久機関である。満好の描いたタイプの水車は、知識としては中国の『農政全書』(1639年)やそれを翻訳した『唐土訓蒙図彙(もろこしきんもうずい)』(享保4年/1719=引用者注)にある高転筒車などを原型とし、考案を行ったと思われるが、摩擦などの概念が入っていない。」

※7.トヨタ産業技術記念館の豊田佐吉生誕150周年特別企画 第五弾「引き継がれる佐吉の志 ~私たちの暮らし、トヨタグループと~」(2017年10月7日(土)~12月10日(日))内の「先人たちの夢「永久機関」」のにおいて、ヨーロッパの各種永久機関を10件紹介しているが、そのなかで唯一日本からは「自然登水車」を取り上げている。その解説には「筒築と称する2本のピストン棒が水車に取り付けられた力輪上のピン(柄)で交互に持ち上げられる。筒築の上下動は水中の4角錘状のポンプに入った水を、斜めに取り付けられた立樋を通して請樋(高さ水面より6尺5寸(約2m))まで押し上げる。これによって水車(原車)が回り、流れ出た水は水面上3尺(約1m)の高さより排出されるというもの。」
(トヨタ産業技術記念館HP内の「先人たちの夢「永久機関」2020.8.1アクセス/
http://www.tcmit.org/archives360virtual/archive-1_1/app/files/32.pdf)

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