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富士山

概要

富士山

日本画

徳岡神泉  (1896-1972)

トクオカ、シンセン

昭和40年頃/c.1965

彩色・紙本・額・1面

139.5×130.5

50 
徳岡神泉《富士山》

一九六五(昭和四〇)年頃
紙本着彩 額装
一三九・五×一三〇・五cm
東京国立近代美術館

一九六五(昭和四〇)年の新日展に向けて制作されながら、生前に発表されることのなかったこの作品は、文字どおりの遺作である。しかし、落款もないことから未完ではあるのだが、もう一点の遺作《富士》とともに、没後公表されて神泉晩年の代表作に数えられている。翌一九六六年には文化勲章を受章した神泉は、その年の新日展に《薄》(東京国立近代美術館)を出品したものの、新たにこれ以上の大作にとりかかった形跡はなく、また、その最晩年が富士の絵の完成に費やされた様子もない。未完の理由は知る由もないのだが、あるいは、完成をためらい、敢えて未完に置かれたように思えなくもない。それほどに、最後の大作であるに留まらず、遍歴の末にたどりついた境地を感じさせる遺作である。七〇歳を迎えて初めて描かれた富士、彼はそこに彼岸を見てしまったのかもしれない。宇宙の、実在の核心に迫ろうと、写実の姿勢を貢いてきた画家に、それは向うから訪れた富士であった。いくたびも孤独のうちに仰ぎ見た富士が、補陀落山のごとく、あるいは大和の寺院の大屋根のごとく虚空に浮かび上がる。兄の死であったかもしれないひとつの限りに触れたところで、自分が生きてきた年月が、ひとつの生として受け取り直される。ひとつの時代に歴史的社会的な生をうけながらも、「時代に生きることだけがすべてではない」との信念で生きてきた者が、死を思うひとつの終わりに会して、死とひとつであるところの総体としての生、自らの一生の意義ないしは質を問う。そのとき、境涯がひとつの単純なかたちをとったのである。
神泉は、制作に行きづまると、富士を見に出かけたそうである。一八九六(明治二十九)年京都に生まれた神泉は、伝統文化に篤い周囲の眼に守られて画家となった。土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾に入門、京都市立美術工芸学校、市立絵画専門学校で優秀な成績をおさめるが、文展には落選を続けた。伝統に樟さし、時流にのるには異質の嗅覚をもっていたがゆえんであろう。形ある物の多すぎる京都、その濃密な文化ゆえの暗さ、翳りの底に、封じ込められたごとくひっそりと息づく自然への回路を神泉は備えていた。落選の失意からの彷徨の果てに一九一九(大正八)年から四年間、富士山麓の富士川町岩淵に身を寄せる。仰ぎ見る富士の雄姿に生きる力を得て、京都に戻った彼は、一九二五年、宋元院体画の細密な写実に倣った花鳥画で帝展に初入選する。しかし依然、彼の絵に暗さがまつわるのは、文化伝統の底に潜む自然の闇の力にとらわれていたからにほかなるまい。そんな神泉は絵に行きづまるとよく奈良へ行ったそうである。文化財の重さに沈む京都と対照的に、奈良には空がある。失われた仏塔も多く、奈良の自然は、形あるものが転生をとげた虚空が明るい。闇の力としての自然から、光としての自然への遍歴の生涯を象徴するものこそ、虚空に出現した転生の富士であった。一九七二(昭和四十七)年に歿。(市川)

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