伝近藤勇所用 紺糸威二枚胴具足
でんこんどういさみしょよう こんいとおどしにまいどうぐそく
概要
この甲冑は戦国時代に普及した「当世具足」で、江戸時代に追加・補修されている。兜(鉄錆地六十二間(けん)阿(あ)古陀形(こだなり)筋兜)や籠手にみられる「輪(わ)貫(ぬき)紋」は江戸幕府の小(こ)十人組(旗本)の合印(あいじるし)であり、幕府関係者の甲冑の可能性が考えられるという。
『国泰寺宝物什器控』(昭和19年)によると「新選組隊長近藤勇ノ著(着)セシモノニテ鉄舟居士寄進ノモノ 一具」とあり、幕末に京都で討幕運動を取り締まった新選組局長・近藤勇(1834~68)が着用した甲冑で、山岡鉄舟(1836~88)が国泰寺に寄進したと伝わるものである。現在のところ、近藤が甲冑を着用した記録は文久3年(1863)「八月十八日の政変」の際のみと確認されている(京都市・千吉西村家文書「役中日記」、会津藩士・鈴木丹下『騒擾日記』)。
江戸無血開城の陰の功労者であり、“剣・禅・書”の達人として知られる旧幕臣の鉄舟は、新選組の前身である浪士組発足の際(1862年)の担当者であり、近藤との親交もあった。そして維新後「朝敵」となった新選組をはじめ旧幕臣の支援や名誉回復にも努めていた。一方、明治前期に荒廃していた国泰寺を自ら揮毫した屏風を多数寄付するなど、その再建に種々支援もしていた。
国泰寺は宝永5年(1708)、5代将軍徳川綱吉より臨済宗法灯派大本山、及び住職交代の際に江戸城で将軍への「お目見え」を許されて以来、年3回将軍に対し音信を幕末まで継続した“幕府ゆかりの寺院”であった(寺には3、5・6、11、13代将軍の4点の位牌が現存)。
鉄舟がこの甲冑をいつ、どこから入手したかは不明だが、明治中期に至っても朝敵とみなされていた新選組・近藤ゆかりの甲冑を東京周辺の寺院に寄進することを憚り、遠く高岡市の幕府ゆかりの国泰寺へ寄進したと考えられている。国泰寺は明治29年(1896)の宝物台帳に「鎧兜(中略)山岡鉄太郎(鉄舟)寄付」とのみ記し、近藤の名を記しておらず、昭和19年(1944)にいたって台帳に初めてその名を記している。これは同3年(1928)の子母沢(しもざわ) 寛(かん)著『新選組始末記』以降、新選組や近藤勇に対する再評価が進んだ結果、その状況を見ての対応とも考えられている。
(参考文献 松山充宏「伝近藤勇着用の甲冑 -『国泰寺宝物什器台帳』を読む」『富山史壇』199号、 2022年12月)
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