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年未詳七月二十九日付前田利長書状(三ゑもん宛)

ねんみしょうしちがつにじゅうくにちづけまえだとしながしょじょう さんえもんあて

作品概要

年未詳七月二十九日付前田利長書状(三ゑもん宛)

ねんみしょうしちがつにじゅうくにちづけまえだとしながしょじょう さんえもんあて

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

前田利長  (1562~1614)

まえだとしなが

富山県高岡市

慶長15~18年(1610~13)頃/1610~13年頃

紙本・墨書

縦33.5㎝×横47.8㎝

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-228

高岡市(高岡市立博物館保管)

 加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長(※1)の書状である。宛所の「三ゑもん」は、二上山麓の旧家・上坂家(※2)の薬師(くすし)三右衛門である。同家文書のうち利長を治療した三右衛門関係文書の5通(※3)の内の1通である(他4通も当館蔵)
 内容は、利長の踝(くるぶし、もしくは腕)に穴が深く空いている所に膿が溜まっており、今の薬を付けても全く効かない。膿を吸い出す薬があれば付けてみたいというものである。極めて具体的で生々しい表現であり、利長が腫物の病に苦悩しながらも、積極的に病に立ち向かっていた姿がうかがえる。
 利長は高岡入城(1609年)の翌年春(※4)に「腫物」(梅毒の症状か)を発症し、病床に伏した。病状は一進一退を繰り返したが、同19年(1614)5月20日に死去するまで本復はしなかった。池田仁子氏の研究(※5)によると、その間、治療にあたった医師・薬師は、幕府から派遣された盛方院(吉田浄慶)・慶祐法印(曽谷寿仙)、薬師「一くわん」(※6)、高岡利屋町・聖安寺、藩医の内山覚中(覚仲)・藤田道閑・坂井寿庵、そして、宇佐美孝氏(※7)によると「石半左」(山崎長郷紹介の薬師)も治療にあたったとされている。しかし、この上坂家の薬師三右衛門の名は上がっていなかった。
 だが本史料以下、三右衛門関連5通(巻子装)を含む、上坂家文書は35点は木倉豊信氏により、昭和39・41年(1964・66)に紹介済である(※8)。その中で木倉氏は本史料(第16号文書)を慶長15年と推測しているが、病に倒れてから亡くなる同19年までの可能性もあると考えられる。
 利長の署名はなく、日下(にっか)」に利長の「長盛」印(黒文円印)が捺される黒印状形式である。
 本史料は令和元年(2019)7月27日~10月14日の当館開催の特別展「前田利長書状展」の出品した(展示№23)
 天地全体にシミがあるほかヤブレ、少虫があり、本紙全体にヤケがみられるなど状態は悪い。

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【注】

※1 前田 利長 まえだ としなが 永禄5(1562)・1・12~慶長(1914)・5・20
 加賀前田家2代当主。前田利家の嫡男として尾張国愛知郡荒子(現名古屋市中川区)に生まれる。初め利勝。織田信長の命により父利家と各地を転戦。1583年(天正11)加賀国石川郡松任4万石に封ぜられたが,佐々成政が豊臣秀吉に屈したことから,85年その旧領のうち砺波・射水・婦負3郡に封ぜられ,射水郡守山城を居城とする。またこの年羽柴姓を許され,従5位下肥前守に叙任される。97年(慶長2)新川郡富山城を修築して入城。98年前田氏の家督を相続,従3位権中納言に叙され金沢に移る。99年利家の死後,豊臣政権の五大老に列す。豊臣政権分裂に際して前田氏存続に努め,1600年の関ケ原合戦では徳川方につく。戦後徳川家康から加賀国能美・江沼2郡を与えられ,加越能3カ国のほぼ全域を領有する大大名となり,十村制度の創設,05年越中総検地など領国統治を進める。同年家督を嗣子利常(利家4男)に譲り,新川郡22万石を養老封として富山城に隠居。その後も藩政を総監し徳川氏・豊臣氏間の対立激化の中で動揺する家臣団の統制に意を尽くす。09年富山城焼失後一時魚津城に移住。同年射水郡関野(せきの)に新城を構築・移住し,高岡と改称する。10年腫物(はれもの)を患い,翌年さらに悪化するに及んで遺言書を認める。また家臣団を本藩に返して徳川氏への親近の姿勢を示す。14年病気悪化の中で京都隠棲を幕府に願って許されるが果たさず,高岡城で死去。享年53歳。法号瑞龍院聖山英賢大居士。参考:『加賀藩史料』編外備考,『寛政重修諸家譜』巻1131,高澤裕一「前田利長の進退」(高澤裕一編『北陸社会の歴史的展開』)。〈見瀬和雄〉
(『富山県大百科事典〔電子版〕』北日本新聞社、2010/20200326アクセス)

※2 上坂家 こうさかけ
 「上坂家文書」を伝える上坂家は守山城(二上山)の西麓の高岡市東海老坂に古くより住んだ有力農民、もしくは下級武士と思われる。同家の古文書(当館蔵)には守山城主・神保氏張の書状や年貢請取状もあり、遅くとも前田家の越中支配(1585年)以前より土着していたことがわかる。「先祖由緒并一類附書上帳」写(役儀4代「御用留」当館蔵)によると、元禄3年(1690)五兵衛の時初めて十村分役の山廻役に任命されたので、同家ではこの五兵衛を「役儀初代」としている。五兵衛は宝永3年(1706)11月に病死している。
(木倉豊信「上坂家文書(続)」『富山史壇』33号(1966.3)、役儀4代東海老坂村五兵衛「御用留」当館蔵)

※3 上坂家・薬師三右衛門の利長治療関係文書
 木倉豊信「上坂家文書目録」(『富山史壇』28号、1964.3)の第14~18号文書。
特別展『高岡開町410年記念 前田利長書状展』(高岡市立博物館、2019年)の第23、27~30号文書。

※4 利長の腫物発症時期
 慶長15年(1610)3月、将軍徳川秀忠は利長に対し「腫物被相煩候由、如何候哉無心元候(腫物を煩われたとのこと、いかがでしょうか。心配しています。)」(『加藩国初遺文』)、同4月には大御所徳川家康より「煩無心元候間、使者差遣候、無油断御養生専一候(病を心配していますので、使者を遣わします。油断なく養生に専念してください。)」(同)と見舞いの書状が届いており、宇佐美氏は「これから利長の病は慶長十五年三月には周知のものとなっており、高岡に城を移した慶長十四年には発病していたとも考えられよう。」と推察している。
(宇佐美 孝「文献史料調査に関する考察」『高岡市 前田利長墓所調査報告』高岡市教育委員会、2008)

※5 池田仁子『近世金沢の医療と医家』岩田書院、2015

※6 薬師「一くわん」
 鈴木景二「前田利長書状二通」『富山史壇』189号(2019.7)

※7 宇佐美 孝「加賀藩史料から見た前田利長墓所の変遷」『高岡市 前田利長墓所調査報告』高岡市教育委員会、2008

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