〔慶長15年(1610)〕後2月21日付 徳川秀忠書状(前田利長宛)
〔けいちょう15ねん 1610〕ごにがつにじゅういちにちづけ とくがわひでただしょじょう まえだとしながあて
概要
徳川幕府2代将軍徳川秀忠(※1)から、「越中中納言」(※2)、即ち加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長(※3)に宛てた書状である。当館3通目の利長宛秀忠書状となる(※4)。
内容を意訳すると「狩り場の見舞いとして夜物(よるのもの)(夜着(よぎ):着物の形をした袖のある掛布団)5枚、毛氈(もうせん)30枚を贈って頂きました。遠国からの悃(こん)意(い)(誠意、真心)を大変深く感じました。なお、使者の大久保忠隣(ただちか)(※5)が直接申します」というもの。
本史料は『大日本史料』、『加賀藩史料』等に掲載がなく(※6)新発見と思われる。
年紀は無いが、利長が権中納言に任じられた慶長3年(1598)より、その死去〔同19年(1614)5月〕までの期間で「後(閏)2月」は慶長15年(1610)しかない(※7)ことから、本史料の発給年が判明する。
「狩り場」とは同年同月14日、秀忠が三河国田原(現愛知県田原市)で行なった大規模な狩猟(巻狩)のことと考えられる(※8)。秀忠はこの狩りで4万2、3千人を動員し、鹿700余頭を仕留めたという。
本史料中で秀忠が「遠境」と述べている通り、利長は当時隠居地の越中高岡城にいた。しかし、将軍秀忠主催の大規模なイベントに対して細やかな気遣いを見せている。このことから、利長は日頃より徳川家の一挙一動に注目し、忠誠を示していたことがうかがえる。関ヶ原の戦いで徳川方についたとはいえ120万石という突出した領地を持つ前田家を差配する利長としては、徳川家と良好な関係を維持する必要があったものといえよう。また当時は、豊臣・徳川両権力の併存期(二重公儀体制)という政治的緊張が高まっていく中で、利長と秀忠との関係性を示す貴重な文書であるともいえる。
本史料は将軍の書状「御内書(ごないしょ)/御教書(みぎょうしょ)」である。料紙は大きく厚手の楮紙「大(おお)高檀紙(たかだんし)」で、権力者の尊大さを最も示すものである。全体にシミがみられるが状態は良好といえる。
【釈文】
為狩場見廻、
夜物五、毛氈三
十枚被相送之、
遠境之悃意、
不浅候、猶大久保
相模守可申候、謹言、
後二月廿一日 秀忠(花押)
越中
中納言殿
【読み下し】
狩場見廻いとして、
夜物五、毛氈三
十枚これを相送られ、
遠境の悃意、
浅からず候。なお大久保
相模守申すべく候、謹言。
(後略)
【注】
※1 徳川 秀忠(1579~1632)
江戸幕府第二代将軍。家康の三男。幼名長松、のち竹千代。慶長10年(1605)将軍となる。元和9年(1623)まで将軍職にあって家康の遺命を守り、諸法度の制定、貿易地の制限など幕府組織の整備に努めた。 (『精選版 日本国語大辞典』)
※2 越中中納言
利長は慶長3年(1598)8月、権中納言に叙任、翌年12月辞しているが、その後も「越中中納言」と呼ばれていた。しかし、利長は書状では秀吉から受領した「羽柴肥前守」や、その略称「はひ」「ひ」などと署名している。
※3 前田 利長(1562~1614)
織豊期~江戸初期の武将・大名。加賀国金沢藩主。藩祖前田利家の嫡男。はじめ父とともに織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に臣従、加賀国松任、越中国守山、同国富山などを次々に居城とした。1598年(慶長3)利家の家督を継ぎ金沢城に移り、翌年利家の死去で、いわゆる五大老の1人となった。一時徳川家康と対立関係にあったが、母を人質とすることで収拾。翌年の関ケ原の戦では徳川方につき、戦後加賀・能登・越中3国を領した。
(『山川 日本史小辞典 改訂新版』)
※4 当館所蔵の利長宛秀忠書状
1通目は年未詳(1609年カ)5月1日付で高岡築城の正式な許可状。2通目は年未詳2月2日付で利長の病気の見舞状。鷹狩りで得た雁20羽を送っている。
(当館所蔵資料データベース「文化遺産オンライン」)
※5 大久保 忠隣(ただちか)(1553~1628)
江戸時代初期の大名。忠世の長子。家康に仕え姉川の戦い、長久手の戦いに功をあげ、文禄2 (1593)年父の跡を継ぎ小田原城主。相模守。秀忠擁立後、本多正信とともに老中にあり政務にあたる。のち正信と争い慶長18 (1613)年所領を没収され近江に蟄居、元和2 (16) 年剃髪。配所で没した。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)
※6 HP「東京大学史料編纂所」内の「大日本史料総合データベース」・「近世編年データベース」にて検索したが本史料はヒットしなかった。(https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/)
※7 HP「CyberLibrarian 図書館員のコンピュータ基礎講座」内の「西暦・和暦対照表」。
(https://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/index.html)
※8 「慶長15年閏2月14日、将軍秀忠、三河ニ狩スル條」『大日本史料』第12編7(11冊補遺)、p167。この史料によると、秀忠はこの巻狩で鹿700余を仕留め、帰途の同月24日に駿府(家康居城)に立ち寄っている。
またこの巻狩の勢子大将を土井利勝・井伊直孝が務め、この時に供奉した旗本は美麗を極め、要した費用は計り知れないと言われた。またこの狩に動員された人数は、同行した本多忠勝によれば4万2、3千人とされ、源頼朝による富士の巻狩りと同じく将軍である自身の権威誇示や軍事演習の側面があった。 (ウィキペディア「徳川秀忠」)
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