色絵草花文蓋物
いろえそうかもんふたもの
概要
"明治初期に焼造された有田磁器の特色は、使用されている顔料の変化と言えるであろう。その顔料のうちでも染付に用いられた「呉須」と称せられる青料が、西洋から輸入されるコバルトにかわった。有田の窯焼きが用いていた「呉須」は天然のもので非常に高価であったが、西洋のコバルトは廉価だったので、窯焼き達は西洋コバルトの使用に転向した。
西洋からコバルトを輸入した最初の人は、江戸の商人瑞穂屋(清水)卯三郎であった。彼は慶應3年(1867)パリ万国博へ参加し、酸化コバルトその他絵付に用いる顔料を購入して、明治元年(1868)5月に帰国して、これを服部杏圃に授け試用させた。ちょうどその頃、長崎に滞在していたドイツ人、ゴットフリード・ワグネルは、深海平左衛門の招きで有田にやってきた。ワグネルは媒溶剤の研究や石炭窯の新築などで重要な影響を有田窯業界に与えているが、この新しいコバルトにも関係がある。『有田町史(陶業編Ⅰ)』によれば、「陶磁器の染付に用いられる顔料は、従来は中国から“ごす”という一種の石を輸入し、これを粉末にして用いた。“ごす”にも上等のものから数等の品種があ“ごす”のような風雅な趣に乏しいので、これに石粉を混入するなど種々技術上の研究を重ったが、極めて高価なもので、窯焼き達はその入手に苦労していた。ワグネルは“ごす”を一見して、これはコバルトという金属原素を含んだ石である。ドイツにはこの鉱石から精製したコバルトがある。これを使用すれば自由に濃淡を出すことが出来ると教えた。コバルトは“ごす”とは比較にならないほど値段が安いので、このことを伝え聞いた利にさとい商人は長崎に出てコバルトを買い入れ、有田の窯焼きに売りつけた。しかし、それまで“ごす”を用いなれていた絵書き達は、コバルトの適量を知らなかったので、焼き上げてみると藍黒色になるなど失敗が多かった。深海父子はコバルト使用の分量を試験し、コバルトだけを用いるときは発色がやや黒味を帯びて“ごす”のような風雅な趣に乏しいので、これに石粉を混入するなど種々技術上の研究を重ねて、ついには“ごす”とほとんど優劣のない色を出すことに成功した。こうして染付の顔料は、しだいに“ごす”からコバルトへ移行していった。」とある。
№15~18までに使用されている染付顔料は、西洋から輸入されたコバルトであろう。江戸末期まで続いていた古伊万里様式のものとは、一味異なった染付の発色が、明治初期の有田磁器に認められるのである。
上絵顔料にも変化があった。従来の鉄分による朱赤よりは、派手で鮮明なピンクがかった紅色を呈する正円子の使用が盛んになった。
香蘭社の創業は元禄年間にさかのぼるが、法人格としての設立は明治8(1875)年、株式会社の前身である香蘭合名会社設立は明治12(1879)年である。同社の百年史によれば、上絵赤の蘭のマークは明治10年頃の製品につけられたという。
深川製磁株式会社の創業も江戸時代にさかのぼるが、『肥前陶磁史考』によれば、創業は明治27年、会社設立は明治44年、専ら高級品を手掛け製品には富士流水をマークとしたと述べている。"
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