c) 資産の真実性 | 姫路城の建造物群とその所在地域は、築城以来19世紀後期まではここに住んだ歴代大名によって、それ以後は国及び関係機関により適切な維持・管理が行われ、意匠、材料、技術、環境のいずれにおいても創建以来の状態を現在によく残している。 とりわけ1934年から1964年までの30年間に行われた保存事業は、国が直轄事業として根本的に修理・復原をしたもので、その保存のために大いに意義のあるものであった。この保存事業では、日本で確立された木造文化財の修理のための優れた技術が活用された。また、修理の方針については、複数の学識経験者によって構成された修理委員会の討議に基づき決定された。とくに復原のための現状変更については、国がイコモス国内委員会メンバー多数を含む学術的な文化財保護審議会で審査を行い、許可を与えている。この保存事業により文化財としての真正性は次のように保たれた。 i) 意匠の真正さ 姫路城の建造物群は、16世紀初期からその当初の意匠をそのまま守ってきた。1934年から1964年までの修理においても意匠の復原はほとんど必要がなかった。 一般に木造の城郭建築では、防火目的のため木造の構造体の外周を土壁で覆う形をとる。このため、土でできた外壁に接した木材にどうしても蒸れや腐れが起きやすい。姫路城の建造物群の場合、建築後かなりの年数を経ていたため、外壁に接した木材や外壁の土は、相当程度破損や腐朽が進行していた。 1934年から1964年にかけての保存事業では、この破損した木材の取り替えが行われたが、破損部材を取り替えるためには、外壁を取り外す必要があった。外壁の素材の維持のため、壁を構成する土の成分や材料の組織を化学的に検査を行い、それに基づいて修理前と同じ質の土で壁を復原するべく努めた。また、壁の仕上げについては、伝統的な技法を受け継いだ職人の手によって、昔ながらの手法によって仕上げる努力がはらわれた。このようにして創建時の意匠が引き継がれた。 ii) 材料の真正さ 1934年から1964年にかけて行われた修理では、土壁に覆われて腐朽した木の部材や地盤の湿気により腐朽した部材等の取り替えを余儀なくされた。これらの部材については、木材の材質、仕上げ、加工方法等の綿密な調査を行い、取り替え後の部材が同じ材質、仕上げ、加工となるように努力がはらわれた。取り替えを必要とした部材は、外壁に接した部材の多くと一部の柱の足元等で、その他の基本となる構造体及び建物の内部には当初材がすべて残されている。 iii) 技術の真正さ 1934年から1964年にかけての保存事業では、部材の加工から組立にいたるまで、すべて伝統的な技法で行われ、技術的には創建当初と変化しているところはない。ただし、大天守の基礎については、鉄筋コンクリートの補強がある。これは、5層の屋根を重ねた巨大な大天守の700トンの重量に対して地盤が弱く、水平・垂直方向に大きな変位を生じていたためで、修理を必要とする大きな原因であった。地盤は地中深い岩盤とその上部の土からできていたが、日本は地震国であり、大天守のような巨大な建物では、補強のない地盤では破壊の危険がある。このため将来的な保存を考慮して地盤の中に鉄筋コンクリートの基礎フレームを建物と地下の岩盤の間に挿入した。この補強は、外観からは見えない土中に限ったものであり、弱い土をコンクリートフレームに置き換えただけで他の部分に影響を与えるものではない。 iv) 環境の真正さ 姫路城は、歴史的な変遷の過程で一部の建造物を失ったが、天守群をはじめとする主要な建造物群は創建時のままの状態を保っている。 所在地域の周辺部分の環境は、武士階級の消滅などの歴史的経過のなかで、大名の居館や周辺の武家屋敷の地区の歴史的建造物が失われたが、濠や石垣などは保存されている。また、この区域で進行中の、建造物群とその周辺環境にあわせた保存整備計画は、都市環境の近代化の過程の中にあって、歴史的遺産を社会的に活用するため最大限の良好な環境の形成をめざしている。 署名 氏名 内田 弘保 役職 文化庁 長官 日付 1992年 |