3. 資産の内容 a) 歴史 |
仏教は中国から朝鮮半島を経由して6世紀中頃に日本に伝わった。7世紀、法隆寺地域では、天皇の皇子・摂政であった聖徳太子が法隆寺・中宮寺を建立し、また、天皇一族が、太子の病気平癒を祈って法輪寺を、さらに太子の没後、その宮跡に法起寺を建てた(付属資料5「8世紀における寺院位置図」)。 7世紀初頭に聖徳太子が創建した法隆寺はいったん670年に焼失する。その遺構は現在の法隆寺境内の地下に若草伽藍跡として残る。寺は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、場所を変更して、再建される。それが現存する法隆寺西院である(付属資料6「7・8世紀の法隆寺区域における建造物配置復原図」)。その建造物のうち、講堂のみは925年に焼失するが、990年にそれも再建される。 西院と並んで現在の法隆寺の中枢部を構成している東院は、8世紀前半に聖徳太子の斑鳩宮跡に太子の霊を祀るために建設された伽藍である。 法隆寺には西院と東院のほかにいくつかの子院がある。僧侶は古くは講堂周辺にある僧坊で共同で生活していたが、11世紀ごろから高僧とその弟子たちの集団がそれぞれ宗教活動を行う小寺院を設立し、そこで生活するようになる。それが子院である。いま法隆寺に残る子院の建造物の多くは16〜17世紀にかけて建設されたものである、そのころ、西院・東院とあわせて、ほぼ今日に見る法隆寺全体の構えができあがったのである。 法隆寺は、古くは鎮護国家の寺として天皇家の保護を受け、さらに、12世紀ごろからは広く一般庶民の問に聖徳太子を尊崇する信仰がひろまり、太子創建の寺として多くの信者を集めて繁栄した。その維持修理には終始国家の厚い庇護があった。しかし、近代国家日本の出発である1868年の明治維新では、神道を重んじ、仏教を排斥する思想が尊重され、その趨勢のなかで法隆寺も衰えた。このため文化財の保護の必要性を認めた新政府は1897年に古社寺保存法を制定し、それによって新しく文化財の学術的な調査と保護の途が開かれた。その伝統は現在の文化財保護法に引継がれている。 法起寺は聖徳太子の遺命によってその宮であった岡本宮跡にその子の山背大兄王が7世紀に建立したと伝える。しかし、16世紀末、兵乱によって焼失し、わずかに三重塔のみが残る。この三重塔も法隆寺の歴史的建造物と同じく文化財保護法の保護下にある。 付属資料5 8世紀における寺院位置図 付属資料6 7・8世紀の法隆寺区域における建造物配置復原図 |