a) 歴史 | 〈鎌倉時代 1185〜1332年〉 1185年の内乱の後、武士の政権が鎌倉に成立したが、京都ではなお朝廷貴族の権威が維持されており、公家文化、武家文化、仏教文化がそれぞれ影響しあいながら存在していた。 その中で、この時代を代表する資産としては、世俗や権力と縁を切り自然の中で精神的充足を求めた明恵上人の開基になるJ 高山寺に石水院が残り、鎌倉時代の住宅的な建築様式を伝えている。 〈室町時代 1333〜1572年〉 1338年、室町幕府成立により京都に政権の中心が戻ると、L 天竜寺など臨済禅の大寺院が郊外に建立された。これらの寺院には、禅宗寺院の地割と自然地形を活かした禅宗庭園が作られた。作庭にすぐれた禅僧、夢窓疎石によるK 西芳寺庭園はその代表例である。 室町幕府の最盛期となる14世紀末には、当時最高の権力者であった足利義満の山荘(後にM 鹿苑寺となる)に象徴される、武家の権威を示しつつ王朝への憧れから公家文化を取り入れ、さらに禅宗を通した中国文化を結合した北山文化が栄えた。 15世紀中頃には、公家文化、武家文化、中国文化の融合がさらに進み、芸術的に、より洗練された、足利義政の山荘(後にN 慈照寺となる)に象徴される東山文化が栄えた。 慈照寺庭園でも見られるように、夢窓疎石以来、象徴的な石組による石庭が盛んになり、世界的に知られる枯山水様式の名庭であるO 龍安寺方丈庭園のような、宗教的性格より純芸術的方向で洗練された庭園が作られている。 このように芸術的に文化が高められる一方で、1467年から10年間にわたり京都は戦乱(応仁の乱)の舞台となり、都市としての形を失うほど被災し、古代からの多くの資産も中心部においては地表面から失われていった。 乱後の京都の復興は、経済力を高めていた町衆の手によるものであり、祇園会の山鉾の復活は祇園祭として現在まで継承されている。 祇園祭とともに京都の夏を彩るイベントである五山の送り火も、諸説はあるがこのころ始まったともいわれている。これは、8月16日盂蘭盆の夜、精霊を送るため京都を取り巻く山々に松明の火で文字や舟形を浮かび上がらせるものであり、都市の背景であった山々がこの時は精神性の高い文化的なランドマークに変わっていく。こうしたイベントからも、京都が周囲の自然と対峙するものではなく、一体となって発展してきたことを理解できよう。 また、戦乱を避けて地方へ移った貴族たちによって京都文化の地方への伝播が進み、都市づくりにおいても京都を規範に、山、川、社寺等を京都のそれになぞらえた地方都市が造られていった。 写真1 祇園祭 写真2 大文字五山送り火 |