a) 歴史 iii) 産業
 江戸時代の検地帳などの史料によると、白川郷と五箇山地方では、平坦地の少ない山間地のために稲作は少なく、わずかな畑地と焼き畑で稗や粟、そばなどが栽培され、食糧の自給がほそぼそと行われていた程度の農業であったことが知られる。また、山林からの収穫も木の実、きのこ、山菜類などが主であり、また、炭や薪、蝋、漆などの生産や採取も行われていたが、この地方の家々の生活を豊かにするほどのものではなかった。この貧弱な農業生産に代わる地域の主要な産品は、和紙と塩硝と養蚕てあった。
 和紙は山林に自生する楮が原料であり、この採取および和紙とするための皮剥きや晒し、紙漉きなどの加工には多くの時間と労力を必要とした。したがって、主要な農産物がなく、積雪期の長い山村の換金生業としては、条件にかなったものであったので、この地方では和紙の生産が盛んであった。この地方の和紙生産の始まりはあきらかではないが、江戸時代初期にはその記録がある。和紙生産は江戸時代を通じて行われていたが、明治時代初期に西洋から導入された機械による洋紙生産が始まると次第に衰退していった。
 塩硝は火薬の原料であり、したがって重要な軍用物資であったため、それぞれの地域の支配者によって厳しく統制され、また、特別に庇護もされていた。白川郷と五箇山地方での塩硝の生産は、ヨモギ、アカソ、ムラタチなどの雑草を牛肥、下肥とともに土に混ぜ、3、4年かけて土壌分解させて、それを精製して硝酸カルシウムを抽出するものであった。この地方の塩硝生産は17世紀中期頃からであり、江戸時代を通じて行われていたが、明治時代になって西洋から安価な硝石が輸入されるようになると、公的な買い上げも停止され、その生産は行われなくなった。
 塩硝生産には大量の雑草を採取するための多くの労力が必要であり、精製抽出は冬期に行うので、和紙生産と同様に、この地方の気候風土にかなったものであった。また、その生産を秘匿し、管理するために、この地方では家屋の床下の地面を深く掘り下げた穴の中で土壌分解を行っていたので、床面積の広い家屋を必要とし、このことが規模が大きく、床部分の多い合掌造り家屋を生みだす主要な要因の1つになったと推測されている。
 蚕を育て、繭から生糸を紡ぐ養蚕と製糸の生産は、この地方では16世紀前期にはその記録が見られるが、本格化するのは17世紀末頃からである。その後、江戸時代を通して安定した生産が行われていたが、幕末から始まった外国との貿易による生糸と絹織物の輸出の増大に伴って、この地方の養蚕も急速に伸展し、最も重要な産業となった。これは明治時代になって衰退していく和紙と塩硝生産を補って余りあるものであった。この養蚕業は、太平洋戦争中の一時的な低迷期を経て、戦後の1970年頃まで続いていたが、現在では全く消滅してしまっている。養蚕もまた、桑の葉の採取や蚕の世話に多くの労力を必要とするものであった。山間部における養蚕は、桑の集積や蚕の飼育に屋内の広い空間を必要としたので、このことが小屋内の空間を多層とし、積極的に利用する合掌造り家屋の成立を促し、その発展に大きく関わったといえる。


link-button