この太刀は那須与一の佩刀と伝え、当初の拵とともに同家に伝来した。那須与一は源義経に従った武将。寿永四年(一一八五)屋島の合戦で平家方の舟が掲げた扇の的を射落とし、弓の名人とうたわれた。
太刀は平安時代末期から鎌倉時代初期にかかる古備前派の刀工成高【なりたか】の作である。成高の太刀は現在四口が知られるのみであるが、なかでもこの太刀は生ぶな姿を伝えている。作風は細身小鋒の優美な姿で、茎を強く反らせたところに特色がある。鍛えは板目に杢目交じり、やや肌立ち、地色は黒めであり、刃文は上半が勾口の締った直刃、下半は匂口のうるみごころの小乱を焼き、平安時代の備前物(古備前)の一作風を示している。
拵も当初のもので、平安時代の拵様式を知る好例である。柄は黒漆塗りの鮫皮で包み、表裏の刃方に山金地【やまがねじ】九文銭唐草文彫の金物を据え、革紐の柄巻を施して黒漆を塗る。鞘は薄革包み黒漆塗りで、そのうえから経青緯黄の織色綾(文様不明)で包む。胄金、猿手、足金物の金具はいずれも山金地に九文銭と唐草文を彫っていてる。鐔、縁、鐺を欠失していることが惜まれるが、柄頭が大きく、鞘尻が細く、鞘の肉取りが薄く引締った形状は平安時代の特色をよく示している。刀身と当初の拵が同時に伝来していることは極めて貴重である。
なお、附の那須家軍器図一巻は、同家に伝来した武器武具を図し、法量、品質形状を注記したもので、天明七年(一七八九)那須資明の奥書がある。