堀川用水及び朝倉揚水車 ほりかわようすいおよびあさくさようすいしゃ

史跡

  • 福岡県
  • 朝倉市
  • 指定年月日:19900704
    管理団体名:
  • 史跡名勝天然記念物

堀川用水は筑後川四大用水、すなわち堀川用水、床島用水、大石長野用水、袋野用水のうちの一つで、寛文三年(一六六三)、福岡藩士木村長兵衛、魚住五郎右衛門によって着工され、翌四年に竣工をみた。四大用水のうち最も古く開鑿されたものである。この結果一五〇町余が開田されたという(『筑前国続風土記』『[[上座]じょうざ]郡堀川宝暦御普請記録』)。
 その後六〇年を経た享保七年(一七二二)取水口に土砂が堆積したので、福岡藩士川崎伝次郎、麻生四郎右衛門によって取入口の移動が行われ、右岸の岩盤に長さ一一間、内法五尺四方のトンネルが穿たれた。これが切貫水門である。
 この工事は難工事であったため、守護神として水神を祭って祈念した。これが現在水門の上に建てられている水神社である。
 その後、宝暦九年(一七五九)、上座郡奉行嶋井市太夫が検分の結果、用水幅を広げ新溝を掘り、取入口を拡張し、突堤井堰の嵩揚げが実施されることとなり、[[十時]ととき]源助の支配下にこれらの工事が実施され、切貫水門は一〇尺四方に切拡げられた。現在残る遺構はこの時拡張された時のものである。この結果灌漑面積は二一八町九反歩に増加した。
 堀川用水は流速も早く水量も豊富な用水であったため、上流部には揚水車が設置された。文政八年(一八二五)筑後川絵図(大内哲夫氏所蔵)には堀川に上流より二連、三連、二連、二連の水車が画かれているが、後三者がそれぞれ菱野三連水車、三島二連水車、久重二連水車として現存している。
 その絵図によって各揚水車が一六〇年以上の歴史をもつことが明らかになるが、さらに『上座下座両郡御境目並大川筋古今雑書』に
 壱挺ハ菱野村
 一、堀川筋養水車 但片柄〓(*1)付
 菱野村
 壱挺ハ 催合
 古毛村
 但天明九酉年、壱挺菱野村へ願増、比時より都合三挺共に両柄〓(*1)付に相成(下略)
とあり、天明八年(一七八八)以前には菱野村水車一挺、菱野・古毛村催合(共用)の水車が一挺、計二挺あったが、天明九年(一七八九)に菱野村水車が一挺加わったこと、それまで片柄〓(*1)一であったが、この時から二挺とも両柄〓(*1)になったことがわかる。今日の揚水車の原形は天明八年以前に遡り得ることが明らかである。おそらく宝暦改修後ほどなくこれらの揚水車が設置されたものであろう。菱野揚水車の灌漑面積は一三町五反、三島揚水車は一〇町五反、久重揚水車は一一町、計三五町であるが、この水車設置により、自然流入では灌漑不可能であった高燥地が水田化されることになった。
 このように堀川用水開鑿後も漸次開田が進行し、近代には灌漑面積六四九町余まで増加した。
 揚水車自体の歴史は文献上では古代末期にまで遡り得るとはいえ、それらの多くは自然河川に設けられたため災害に弱く、かつ維持管理に高額の費用がかかったため長期にわたる安定利用の事例は少なかった。安定水路で、かつ流速が早く、水量も豊富な大規模農業用水が開鑿されるようになる江戸時代に至って初めて揚水車は安定的に利用されるようになり、農民のものになっていく。朝倉揚水車はそのことを具体的に示す存在であるが、また全国に現存する揚水車のうち、その歴史が明確なものの中では、最も古く設置されたものと考えられ、かつその揚水量も全国最大である。
 堀川用水はそれまで「利水の方法を知らず」といわれた筑後川にはじめて設けられた大規模用水であり、取水口周辺によくその難工事の様相をしのぶことができる。また朝倉揚水車は安定し流速のある大規模用水を利用してさらに開田を進めようとした近世農民の英知を具体的に示すものである。これらは筑後川流域における水田開発の過程を具体的に知ることができる貴重な遺跡であり、日本農業史上有数の文化財である。よってここに史跡に指定しその保存を図ろうとするものである。

堀川用水及び朝倉揚水車

ページトップへ