慶長18年(1613)、初代佐賀藩主鍋島勝茂の二男忠直(翁介)が佐賀城二の丸(多久屋敷)で誕生した。11歳年上の兄元茂の生母は側女中お岩だったが、忠直は勝茂と正室・高源院の初めての男子だった。忠直は元和3年(1617)に5歳で将軍秀忠に初御目見。同8年の参勤より内室および嫡子は江戸詰めとなり、佐賀をともに出発。従五位下肥前守となり、松平の称号と将軍から「忠」の一字を拝領し忠直と名乗った。以降、これが家例となった。
寛永8年(1631)、19歳のときに忠直は、江戸で庶兄元茂や同母弟直澄・直弘ら同席のもと松平忠明の娘牟利(恵照院)と婚姻した。松平忠明は、母亀姫が家康の長女であり、自身も家康の養子となった人物。この年、12月15日付で勝茂が世継ぎとして期待する忠直に与えた教訓書が本資料である。
十一ヶ条から成るその内容は、若い時の悪事は取り返しがつかないから、この先の5・6年が大切であることなど生活上の留意点や人との付き合い方、家臣の讒言は善悪を見極め、母(高源院)の意見であっても自ら吟味するなどの判断力、直茂の功績によって存在している鍋島家の存続と幕府への奉公の重要性、幕府の御用に立つためには人材が必要なため家中や領民を大切にすることなど、将来の藩主としての心得を諭す内容が中心となっている。
特に兄弟については、「兄弟中存じ合うべき事、長久の根本たるべく候。たとえ気に合わざる儀または相違の儀候共、その段申し届け、再三までは堪忍すべき事、肝要たるべく候。家の悪事は多分兄弟不和に罷り成るか、又は家老と不熟に相成り、家退転申す者に候条、兼ねてその心得失念に有るべからざる事」として、家の存続のためには兄弟との良好な関係保持が重要と強調している。
これらの条目に続く後文で勝茂は、「右書面、当分は承知候ても、間候はば失念の儀もこれ有るべく候条、三ヶ月め朔日ごとにこの書物必ず披見申され、能々納得肝心たるべきものなり」と念を押し、3ヶ月に一度という定期的な再確認の必要性を説いている。