佐賀城下の町人地のひとつ唐人町(とうじんまち)に住む勘四郎という町人が、天保13年(1842)にまとめた「唐人町御用荒物唐物屋職御由緒の次第」。家の元祖にあたる宗歓(そうかん)という人物の記述から始まる。
宗歓は高麗国竹浦に生まれたが、漁中に漂流し筑前国黒崎に漂着。天正19年(1591)大宰府参詣の際、朝鮮出兵の仰せ渡しを受け大坂から佐賀に帰る途中だった龍造寺家晴と成富兵庫茂安に遭遇。二人は「御用これ有る由」にて宗歓を佐賀に連れ帰った。
やがて佐賀で鍋島直茂(1538~1618)に面会して在留の意思を伝えた宗歓は、朝鮮出兵を目前にした「御軍議御座候につき末席に召し出され御尋問」をうけ、「朝鮮八ヶ道の見取絵図御認めにつき毎日出勤仰せ付けられ」た。翌年には鍋島直茂とともに朝鮮に渡り、朝鮮商人に擬装して敵城に忍び込むなど直茂を助け、帰国に際しては佐賀に連れ帰る朝鮮陶工などの手引きも担ったという。
直茂とともに帰国した宗歓は、佐賀に住むよう仰せを受けたが、このとき「宗歓、唐土の産にて、町号を唐人町と御附け下され、御扶持」を拝領した。城下と郷村を分ける十間堀の外側に位置していた唐人町は、やがて佐賀城下に編入された。