初代佐賀藩主鍋島勝茂の嫡男・忠直筆の和歌色紙や短冊、大小5点を貼り合わせた作品。
慶長18年(1613)、勝茂と正室・高源院との間の初の男子として生まれた忠直は、5歳で将軍秀忠に初御目見えをし、元和8年(1622)の参勤で江戸詰めとなり、従五位下肥前守となった。同日、松平称号と「忠」の一字を拝領し、忠直と名乗る。周囲からの期待を受けながらも、藩主就任前に23歳の時に疱瘡で亡くなった。
本資料の絹本の地には全面に蓮池を表すことや、軸端の小口に八弁の蓮が表されていることなどから、生前の色紙や短冊を集めて忠直の菩提を弔う目的で貼り合わせて制作された可能性が考えられる。佐賀の菩提寺高傳寺に納められ、大正14年に鍋島家に返納された。
右端の短冊は「あさ露ハきゝのこりてもありぬへし これかこのよをたのミはつへき」と詠まれていることから、晩年に近いころのものだろう。なお本資料にはないが、忠直の辞世は「ゆふされはなにへなくして今はたゝ いやめつらしき我身なりけり」(鍋034-8「忠直公御自歌并五士伝記」)
最左端の2つの短冊には、坂上是則の「みよしのゝ山のしら雪つもるらし ふる郷さむくなりまさるなり」、在原業平の「ちハやふる神代もきかす龍田川 からくれないに水くゝるとハ」の古今和歌集収載の2首を書している。褐色の短冊は料紙が一部だけ残存しているものの、箔散らしと墨跡をわずかに確認することができる程度である。
「忠直公御事跡」(鍋115-7)には、「(忠直公)御筆御懸物に御仕立てに相成り、御什物方御蔵に相納め居り候なり」などとして数多くの忠直の詠歌が収録されており、忠直が和歌を能くしたこと、また没後もその作品が藩の什物を管理する御蔵で保管されていたこともわかる。